LUZの熊野古道案内

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2008年 10月 11日

熊野の旅 熊野市大泊 昔と今

 紀伊半島は殆どの所はリアス式海岸です。
 なだらかな浜は『七里御浜』が一番大きな物です。ほかは入り江の奥に砂浜があるというような地形です。
 新宮から木本までの20Kmほどが砂利浜で、七里御浜の端っこの『鬼ヶ城』から先は志摩半島まで入り組んだ海岸線に変わります。
 このリアス式海岸では人の住んでいるのは大体入り江の奥です。
 入り江の奥は普段、とても波が静かで平穏な所です。
 しかし、こと津波になると恐ろしい現象が起きてしまいます。

 震源地から押し寄せる水の壁が襲ってきたとき、入り江の開口部の向が進行方向とずれていたら湾の中はあまり変化無しで済みます。
 しかし、運悪く方向が合っていた時は大変なことになります。
 入り口が広く奥の狭いV字型やU字型の湾だと、入り口で1mしかなくても、奥に進むに連れて狭くなるので行き場のなくなった水がどんどん盛り上がります。そして、3倍にも4倍にもなって一番奥の集落を襲うことになるのです。
 入り口が狭く奥の広い湾だと子の様にはならないので安全なのですが、そうして良港は少ないのです。

 リアス式海岸の始まりの集落が『大泊』です。次にある大きな湾の奥が『新鹿』です。
 ともに湾の奥に砂浜があり、普段は波も静かな海水浴場です。
 しかし、津波に弱い湾の典型みたいな所です。
 江戸時代などにも記録に出てきますが、近代では東南海地震の時にも大きな被害を出しています。
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 この写真は昭和10年代の南牟婁郡大泊村の風景です。
 並みの様子や遠くに白く見える『清滝』の水量から推測して、台風明けのときかと思います。
 大泊の家々の壁が丸見えになっています。
 海岸には低い石積みがあるだけのようです。
 この家々はこのあと10年ほどで殆どが津波にやられたようです。
 昭和19年の津波ですが、公式記録の残っていない災害です。
 そのあと、伊勢湾台風にもやられ、古代から続いた災難がやはり繰り返されていました。
 その後で防災工事で大きな堤防が出来、砂浜からは家の屋根すら見えないようになっています。
 これで、万全かと言うと、そうでも無いのです。
 直撃を受けることはよほどでないとないでしょうが、すぐそばの川を津波は遡ります。そして、その部分には国道が走り昔の高さのままです。
 津波が来れば、そこから水は集落になだれ込むでしょうね。
 直撃ではないし、引く時に何もかも生みに引きずり込むことはないですから人的被害とかもうんと減るでしょう。
 しかし、人力で逆らえるのはこの辺までですね。
 
 地震の被害を受け続けた三陸の田老町(宮古市)は、三階建てくらいの高さの堤防ですっぽり町を包んであります。
 堤防に登るまで、海辺の町と言う風景はなくなっています。
 それでも、街を改造してまで避難路を確保して避難訓練も頻繁に行っているようです。
 そうしたものを見ると、逆に自然に逆らうことの難しさを実感して「あきらめ」の気持ちが起きてしまいます。
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 こちらが今の大泊の風景です。
 この堤防は内側から見てせいぜい二階建ての高さです。
 田老町的に言えば不完全な物なのだと思います。
 しかし、住民意識の危機意識は全くないといってもよいですね。
 東南海地震も伊勢湾台風も殆ど忘れられてしまいましたからね。

 『温故知新』なんて・・・無理なんですね。

熊野市広域地図です

by je2luz | 2008-10-11 11:03 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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