LUZの熊野古道案内

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2008年 10月 10日

熊野の旅 65年ほど前 自主防災組織

 近年は『防災』と言う言葉が当たり前に使われています。
 使われだしたのは、『東海地震』が騒がれだした頃からですね。
 雑貨屋さんやホームセンターではそんなコーナーがあったりします。
 そして、各地での地震や災害の発生、地震の予測。富士山の噴火予想・・・実に色んな災害が予想され、被災マップも作られていますから日本全国防災体制が敷かれた?状態です。

 いまから65年ほど前にも日本全国、津々浦々までそうした組織が組み上げられていたことがあります。
 下の写真のようなものです。
 これは、一昨年に取り壊した本家の建物の前の記念写真です。
 『灯火管制』の文字があるから、太平洋戦争末期でしょうね。
 空襲の恐れがあるようになってから組織されたはずですから、ミッドウェー海戦以降でしょう。昭和19年ごろでしょうか・・・
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 ご婦人方の肩からは『大日本国防婦人会』のたすきがかかっています。
 まさに戦時色にそまった時代で、こうした婦人会や青年団などが、空襲に備えて訓練し、待機していたのです。
 いまの各地にある『自主防災組織』よりははるかに訓練された組織にはなっていたようです。
 ただ、機械も道具もなく、ひたすら精神論で立ち向かうように教えられた組織でしたがね。

 このへんでは、新宮は焼夷弾で焼かれました。
 熊野でも木本はほんの少し攻撃されグラマンの機銃掃射も受けています。
 米兵の顔が見えるまで低空で飛んで行ったようです。
 太平洋に突き出して小笠原などには一番近い紀伊半島も軍事的にはどうでもよい場所だったので、町の被害は最小限で済んだようです。
 人的には、民間人の犠牲こそ殆どなかったですが、徴兵された兵士の多くは帰りませんでした。

 この写真、後列の右端にはいかにも憲兵や警察に目をつけられそうな青年が写っていますね。
 新聞記者かなんかなのでしょうかね。
 私の知らない顔ですが、映画なら『赤』の役のスタイルです。

 この写真はガラス乾板なのですが、少し痛みが出ているのと、ご婦人方の真っ白な割烹着のせいでハレーションを起して鮮明度が少し落ちています。
 日独同盟時代ですから、こうした乾板が入れられていた箱は、日本のオリエンタル写真工業とドイツのアグフアの物です。
 原判は今の2L・・・カビネ判の贅沢な物です。
 一緒に保管されていた、結婚式の乾板を包んだ紙には・・・
 『あまり粗悪な印画紙を使用した焼付けは不可です』と言う書き込みがありました。
 つまり・・・この時期になると銀を使う印画紙は最早自由に使えず、粗悪品まで出ていたようです。
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熊野市広域地図です

by je2luz | 2008-10-10 11:14 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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