LUZの熊野古道案内

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2008年 10月 08日

熊野の旅 350年前 紀州の林業 他

 昔々、各地方によって違いはありますが、『留木・御留木』と言うものがありました。
 五種類だったり六種類・七種類と増えたところなどばらついているのは、地方によって生えている木が違っていたということもあるのだと思います。
 この制度は住民が勝手に木を切ることを禁じ、資源保護とともに大名、幕府の収入源を確保することでもありました。
 杉・桧・楠・松・欅などと言う建築材料になる物が対象で炭を焼いたり薪にする雑木の伐採は禁じていなかったようです。
 こうした『留木』のなかで『楠木・樟』は戦後まで残されていました。
 これは『樟脳専売』と言う法律があるほど防虫剤としての『樟脳』が大切な物だったということです。

 江戸時代などの『留木』と言う制度は、特定の人物に伐採許可を与える物です。
 なんだかそこには時代劇に出てくる、今の公共事業に通じる、生臭いにおいもしますね。
 この『留木』は資源の保護にはなっても、林業振興や地域振興には足かせになったようです。
 この辺、奥熊野では、慶安3年(1650)に杉・桧・松の三種類を指定から外しています。
 言うなれば、この辺の人工林による林業の出発点はここになるのでしょうね。

 この頃から『伊勢おかげ参り』が流行りだしたのだそうです。
 太平の世になって庶民に余裕が出てきたって言うことでしょうね。
 江戸時代も昭和の旅行ブーム同様、こうした物が流行ったようで、『東海道中膝栗毛』のような旅人が、伊勢・京都・浪速・金毘羅さん・善光寺・身延山・高野山・永平寺などに出かけたのでしょう。
 熊野三山は少々不便で簡単にはこられませんが、伊勢参りのついでに『熊野古道・伊勢道』を南下してくる人も結構いたようです。
 日によっては、世界遺産が少し飽きられてきた今より、我が家の前を通る『物見遊山の旅人』は多かったのかもしれません。
 江戸の後半とかには、そうした関東から来る旅人を『関東べえ』と呼んだようです。「かんとうべえ」ではなく『かんとべえ』だったみたいです。
 その頃には今の国道42号線の辺りは松原だったはずなのですが・・・
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 後ろの山が『熊野古道・松本峠』です、あの峠を越えて、伊勢方面から来た人は、この国道のある浜筋の松原を歩くか、一本山側の木本本通りを歩いて、一路熊野三山を目指したのです。
 ここまでくれば、『極楽浄土』も目の前です。

熊野市広域地図です

by je2luz | 2008-10-08 12:08 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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