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LUZの熊野古道案内

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2008年 09月 27日

熊野の旅 伊勢湾台風49年

 紀州から伊勢湾沿いの地域では、大きな災害、台風と言うと引き合いに出されるのが『伊勢湾台風』です。
 昭和34年(1959)9月26日、潮岬に上陸して紀伊半島東側を走って伊勢湾の奥深く進んだ、超大型台風です。
 海上にあった時の気圧が910MBと言う桁違いの物です。
 最近騒いでいる台風は970だとか980なんてのですから、豆台風なわけです。
 私は高校生で今住んでいる家の隣に居ました。
 当時は今国道になっている場所は、浜の道沿いに芋畑や小さな家やらの並んだ木本の裏通りでした。

 この超大型台風が接近する前、何日も前から、海が底荒れし、波の高さは浜の中頃なのに不気味な地鳴りがするので眠りにくいほどでした。
 海沿いに暮らす人たちも経験のない不気味な物でした。
 案の定、潮岬に上陸し接近すると、高潮がこの一体を襲い、雨も記録的に降り、風はかつてないほど吹き荒れると言う、まさに三拍子揃ったオールラウンドな巨大台風でした。
 目に入った少しの時間は全く無風で空も晴れかけると言う上陸後も目のはっきりした教科書のような台風でしたね。

 木本では松本峠・鬼ヶ城の山に守られた東側半分は何とか大丈夫でしたが、その保護下になかった本町筋の東半分あたりは道が瓦で舗装されたように埋め尽くされていて、屋根が無事だった家は殆どありませんでした。
 そして、駅前に出る道は市役所のところから先が冠水し、駅前にあった製材所の丸太が流れ出してゴロゴロ転がっていました。
 その一体の丸山町は沼地を埋め立てて分譲され、新築の家が建ち始めた頃です。
 新築の家が一階の真ん中辺まで浸かっていました。
 我が家の裏では、小さなアパートと作業小屋があったのですが、すぐ裏で越えた一発目の波で大きく揺れ、二発目で崩れて流れ始めました。
 これを目撃したのは、石垣に守られた離れの窓から眺めていた私だけです。
 高校生で無謀なので他の人が避難しても残っていたのです。
 浪の怖さを実感した瞬間でした。

 熊野市(人口3万)の被害は
  被災者8.162人 死者1人 負傷者8人 家屋全壊163戸 流失22戸 半壊217戸 被害総額28億6092万円 と、記録されています。
 これほどの台風で、伊勢湾沿いから名古屋で膨大な数の死者も出たのに、熊野市では人的被害が極度に少なく済んではいます。
 巨大台風の接近で海岸線などではそれなりに退避行動がとられていたのでしょう。

 この伊勢湾台風の災害復旧と防災対策で紀伊半島から伊勢湾沿岸の海岸線には堤防が築かれていったのです。
 そして、今でも土木工事の時に言われるのは、『伊勢湾台風にも耐えられる・・・』と言う言葉です。
 しかし、今と違い観測網もなし、目撃者すら殆ど無しと言うところで割り出された『伊勢湾台風にも耐えられる・・・』は絵空事なのです。
 現に、そうして作られた堤防は、それよりうんと小さな『台湾坊主』の時でさえ波が越えています。
 太平洋、熊野灘の概要から直接打ち寄せる高潮・高波のエネルギーの大きさは都会の内海しか知らない人には分かりません。
 波高5mでもゆっくり盛り上がるような内海の物と走ってくる熊野灘では違いますからね。 
 私たちが習う程度の力学でも m×vの二乗 なんですよね。
 進む速度が4倍になりゃエネルギーは16倍です。
 まあ、私はそうした絵空事の説明は信じません。
d0045383_11391934.jpg

 当時の木本浜どおりです。
 後に見えるのが、今の世界遺産・熊野古道・松本峠です。
 この前に木が伐採されたと書いた一体が、この頃にはきれいさっぱり丸坊主です。
 つまり、この前に切られた木はせいぜい樹齢50年ってことですね。
 この頃は、この真下に木本隋道が完成して20年ほどになってきて、松本峠など忘れかけられた頃です。

 余談ですが・・・
 この台風の頃に新進気鋭の若手政治家だった二人が、災害復旧、防災工事のおかげで長期政権の足場を築いたのです。
 一人は元三重県二区選出で衆議院議長まで務めた田村元さん、もう一人は8期32年熊野市長を務めた坪田誠さんです。

熊野市広域地図です

by je2luz | 2008-09-27 11:58 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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