人気ブログランキング |

LUZの熊野古道案内

je2luz.exblog.jp
ブログトップ
2008年 09月 26日

熊野の旅 東南海地震300年前の例

 海岸浸食が始まっては居なかったにしても、浜に堤防など無かった時代、川にも堤防があまり無かった時代には、台風が来れば洪水、高波に襲われ、地震があれば津波に襲われるということが続いていたようです。
 周期が短いといわれる『南海・東南海地震』ですから、熊野に残されている資料にも何度も何度も出てきます。
 建物も今のように頑丈ではない物が多かったですから、大地震でなくても倒壊が出たりしているようです。

 こうした『東南海地震』の一つで、取り立てて大きかったみたいなのが、宝永4年(1707)10月に起きています。
 規模はマグニチュード8.4だそうです。
 もちろん、その当時には気象庁はありませんから近代になってからの推定した物です。

 津波襲来、大泊清泰寺だけ残り民家残らず流失二名死亡、古泊民家36戸流失、新鹿民家殆ど流失24名死亡、遊木も民家流失死者出る。
 未の刻(正午頃)発生して人々は山に避難したそうです。
 木本浦では魔見ヶ島(魔見丘・まぶりか・まみりょうか)まで汐が引き海底が見えたようです。そして、しばらくして浜の中ほどまで浪が上がったとあります。
 この魔見ヶ島とは木本の沖合い1.5Kmほどのところに見える岩の島です。写真の矢印のところ・・・
 そこら辺まで汐が引いてそこが見えたという割りに、木本に押し寄せた津波が小さいですね。
 昭和19年の場合、尾鷲湾の汐が引いて底が見えたそうです。そして、戻ってきた津波が尾鷲市街を一のみにしています。
 震源地が少し北にずれていたのでしょうかね。
 いくら浜に豊かな砂利があったにしても中ほどで済んでいるのが不思議です。
 当時の台風で木本の町まで高潮が入っているのですからね。
 でも、海の底が見えるほど汐が引いたのは事実でしょう。
 この浜は目の前で水深は数十メートルまで落ちていますから、ものすごい引き潮だったのでしょう。

 今の人より防災訓練と言うか、住民の防災意識がしっかりしていたのでしょうね。
 防災無線だテレビだなんて無くても、人々は大きな地震があれば山に避難し、家屋が全滅に近い泊村などでも亡くなった人は少なく済んでいます。
 今、こうした状態になったら住民の半分近くが流されるかもしれません。
 小さな時からじいちゃんばあちゃんや親たちからその地区の弱点を踏まえた地震や台風の心得を口を酸っぱくして教わった時代には防災意識が本当に身についていたでしょうね。

 私も子供のころ・・・
 『地震が揺っても慌てて飛び出すな、かわらに当たるかも知れん』
 『収まったら、余震が来るまでに田圃で出ろ。出来れば戸板を敷くかナル(稲を干す長い丸太)に捕まって地割れに備えろ』
 などと、爺さんに言われたのを覚えています。
 それもあって、この家を設計する時に、地震対策で屋根はアルミで極度に軽く、柱は4寸で限りなく多く使う、筋交い火打ちも可能なだけ入れる、家具は全部造り付けにする・・・とにかく、潰されることだけは防ぐ構造に仕上げました。
 備えては居ますが、こないで欲しいですね。
 まあ、戸殿たちを無事に育ててこの家からは送り出しました。
d0045383_12113964.jpg


熊野市広域地図です

by je2luz | 2008-09-26 12:08 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : https://je2luz.exblog.jp/tb/8670787
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]


<< 熊野の旅 伊勢湾台風49年      熊野の旅 今も昔も 土地争い >>