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LUZの熊野古道案内

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2008年 09月 23日

熊野の旅 古代人の距離感

 今の時代、この辺を除き、日本列島には新幹線網や航空路線網が敷かれ、その日のうちに日本の果てまで行って帰ることも可能になりました。
 その少し前には、東京ー大阪を従来線こだまで6時間ほどでしたか・・・そしてその前の『特急つばめ』で8時間ほど、蒸気機関車の頃は10時間ほどですか?だったように思います。
 しかし、こうした鉄路が広がったのは大正期から昭和期です。
 そして、それとともに、日本全国旅行熱にうなされ・・・とも言われました。
 たしかに、紀勢西線が出来てくると、勝浦・那智などがにぎわい、紀伊木本駅までつながると、鬼ヶ城、獅子岩にも一杯観光客が訪れるようになりました。

 でも、この地の果ての熊野も江戸時代の記録では、伊勢参りのついでに足を伸ばして南下してくる人が一万五千も二万も居たのです。
 てくてく歩いて山道を超え・・・
 東海道とかになれば一日中人並みが切れないだけビジネスマン(武士や商人)や観光客(伊勢講や京都見物)が歩いていたそうです。
 そりゃあ、今の新幹線での人の動きに比べれば小さいですが、元になる日本の人口、都会(江戸・大阪)の人口も比較にならないほど少なかったのですから・・・
 おまけに、人の寿命がうんと短く、せいぜい50年ほどですから、無事に動ける年なんて高が知れています。

 さらに遡って平安・平城・明日香となってゆけば、どんどん人口は少なく、人生も短くなって行きます。
 もっとも、昔には『八百比丘尼』などを始め、何百年も生きたのが一杯居るようですが・・・
 しかし、普通の人間が活動できる年数が少なく、移動に時間が掛かる時代の古人たちの行動半径を見ると恐ろしく広いですね。
 この辺に関連する人物では後鳥羽上皇たちはいくら信心深いとは言え何十回も都から熊野まで参拝に来るなんて・・・さらに、いくら南紀・鬼ノ元浦(木本)の海賊の親分が言うことを聞かないからといって坂上田村麻呂が出張ってきたり、その将軍が日本国中厄介な豪族退治に遠征したり・・・
 神宮(伊勢神宮)を今のところに定めたと言われる「ヤマト姫」が丹後の国宮津からうろうろ二十箇所余って天照大神の安住の地を求めてうろついたり・・・それも行く先行く先で一応お祀りする場所を作ったのですから、ちょいと荷物を下ろして一休みではなかったはずです。

 行動可能年齢が今の半分の人たちにとってはこうした旅や遠征はものすごく大きなことだったはずです。
 それなのに、古代人はものすごい行動力ですね。
 そして、蝦夷地などを除き日本のことは各地のことまで結構把握されていたようですね。

 もっとも、これは日本だけでなく諸外国でも同じですね。
 シーザー・アレキサンダー・ジンギスカン・・・地の果てまで攻めて行ったり、商人も陸のシルクロードを始め、小船を操ってまで地の果てまで交易に出かけていますからね。
 これから見ると、今の人の視野ってそんなに広くないし、行動範囲も広くないですね。
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 これが神宮の元宮・丹後の国宮津の『籠神社』です。
 一人の姫君『ヤマト姫』が御神体の天照大神を奉じて畿外、畿内を安住の地を探すたびの出発点です。
 天橋立の西の端にあります。
 うろついたとされるのが添付の地図の左上の端っこ宮津から右下の端っこの伊勢までです。
 その道筋には、『元伊勢』と言われる神社などが点在します。

ヤマト姫の行脚範囲です

by je2luz | 2008-09-23 12:26 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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