LUZの熊野古道案内

je2luz.exblog.jp
ブログトップ
2008年 09月 09日

熊野の旅 百年前

 今から100年前、1908年は明治41年になります。
 文明開化が始まって40年を経過して、日本の近代化も全国津々浦々まで広まっていった頃です。

 この都市の大きな出来事は、『小学校令改正』に伴って、学校の制度が大きく変わったことです。
 この年から、小学校…『尋常科』・『尋常小学校』が6年制になっています。
 『高等科』・『高等小学校』は二年になり、義務協幾分を延長したわけです。
 このきっかけは、『学力低下』が懸念されたからだそうです。
 
 二年の尋常科の延長は、全国の小学校の校舎増築ラッシュを引き起こしました。
 その当時では、村々の予算の他に地元の寄付が無ければ校舎は立ちませんでした。
 しかし、全国津々浦々、当時の日本人は子供の教育のためなら、自分の家に子供が居るとか居ないとか関係なく、『教育のため』と言えば、食べ物を削ってでも寄付をしたものです。
 全国の小学校の学校史にはこの年号はでてくる物です。
d0045383_1233365.jpg


 もう一つ・・・
 この頃、秋田材・遠州材・外材などに押されて、『紀州材』は東京の市場から撤退せざるを得なくなった・・・という話があります。
 100年前にこの辺の材木は一度危機を迎えたわけですね。
 大正から戦争が激化するまでの間、紀州材の行き先はほとんど『大阪』でしたが、そうした流れを受けての話だったのでしょう。
 陸路、鉄路が出来てきても。重くてかさばる材木の輸送は船に頼っていました。
 『船』と言うやつは、小さく見えても、貨車10両分とか軽がると摘んで行きますからね。
 岸壁も無い熊野などは、波の静かな日に、はしけ(伝馬船)を使って積み込んでいました。
 頭の上に材木を乗せて、『いただき』と言うスタイルで運ぶのは『おなご』の仕事でした。
 実家の方にはこの風景を写した写真があるはずなのですが・・・
 そして、今は紀州材ではなく、全ての国産材が外材に追われ・・・

熊野市広域地図です

by je2luz | 2008-09-09 11:55 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : https://je2luz.exblog.jp/tb/8582067
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]


<< 熊野の旅 150年ほど前 大地震など      熊野の旅 県政だより みえ >>