七里御浜と呼ばれる、熊野市木本から新宮の手前、熊野川の河口までの約20Kmの砂利浜は緩やかなカーブを描く美しいものです。
この海外沿いには松原が続いていました。
そして、その松原沿いに、昔は『熊野古道・伊勢道・浜街道』は通っていました。
近代に入り、『新道』が作られ、自動車も走るようになり、その道が国道になり・・・昭和の中頃には舗装され、40年代には二車線化もされました。
しかし、その頃になると、江戸時代よりもっと前から育てられてきたであろう防風林の松が急速に枯れて行きました。
大きな原因は『松くい虫』が媒体する『線虫』だそうです。
戦時中に一部伐採されたようですが、国土保全のための松林なので非常事態にもちゃんと残されたのです。
松くい虫の被害が出始める頃、新宮よりの『井田舞子』と言われる海岸部分に道路が新設され、その回りに大々的に松の苗が植えられました。
植林の主体はこの松原を所管する『営林署』です。
砂の移動を防ぐ柵を立て、膨大な予算をつぎ込んで犬も通れないほどの密植状態に植林したあと、ずっとそのまま放置してありました。
肥やしの無い砂利浜ですから当然伸びは悪いです。やっとこさ伸びてきても間引きもしません。
国道の脇ですし、その当時には新宮に「営林署」があり、ものすごい数の職員が居ましたし、日本地図に出てくるほど広い『大又官林』が熊野市にある関係で定期的にそこを職員が通っていたのですが、係りが違うのでしょうか、無視でしたね。
あれから40年以上・・・いや50年ほど経っているのでしょうね。
その松は松原になっていません。
いじけた松がぱらぱらと生えているだけです。
林学博士なんてのも居て、樹木の育成をひたすら研究する施設もある『営林署』はわずか数百メートルの松原すら作れないのです。
そういうことから考えると、鎌倉だ江戸だと言う時代の先人はすごい事業をやったのです。
余分な下生えを刈り取り、倒れそうになれば支えてやり、親から子へ、子から孫へ・・・
平成になる頃にもその続きの『井田海岸』に植林がされました。
もっと大々的に地盤も作って・・・
そちらの方が少し育ちが早そうですが、海岸浸食が進んで地盤ごとなくなりそうです。
げに、近代林業とか育林学とかは役に立たない物ですね。
これは国道42号線の紀宝町内の道の駅『ウミガメ公園』の周辺で見られます。
金を掛けて50年ほどの歳月を掛けて、盆栽にもならないいじけた松を作ったのです。
もちろん、七里御浜松林の復活の役には立っていません。
数えたことはないですが、今となると、七里御浜全域20Kmの間で、松らしき松の古木は百本とかの単位まで減っているのかもしれません。
『白砂青松』なんて日本の美しい海岸を表す言葉はまさに『死語』になってきているようです。
カメラは
ツァイス・イコンタ521/2テッサー105mm
この周辺です