LUZの熊野古道案内

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2008年 06月 28日

熊野の旅 牛 5

 さて、手塩に掛けて育てる牛ですが、家によって育ち具合が少々違ってきます。
 元になる子牛の血統もあります。
 今のように血統を証明するようなタグが付いてくる訳ではありませんから、『博労』の言うことを信じて売買をしました。
 そのあたりでも、口八丁手八丁のやつが居たのでしょう、だから、農村の大事な牛の仲介をしながら、あまりよく言われない業種にもなっていたのでしょうね。
 差が付くのは飼い主の熱心さの他にも、牛を繋いで草を食べさせる用地、鍬を刈り取ってくる野山などの有無も大きく左右したのです。
 子牛の入手から飼育まで段々差が出るってことでした。

 全国に居たこのような『役牛』はものすごい数だったと思います。熊野の山間部でも、田圃を持った家の少なくとも半分は牛を飼っていましたからね。
 その牛は役目を終わって?大きく育って?からどこへ行ったか・・・
 博労がつれてきた子牛に住み慣れた牛小屋を明け渡して、それこそ、とぼとぼと博労の後をついてゆきました。
 時々、立ち止まっては悲しそうな声を上げて・・・
 車の入る道まで出ると、トラックに乗せられ町まで出ます。
 ここで行き先が振り分けられます。

 一部はその地区に残されて『食肉』に化けます。
 かつては、各地に公営の『屠殺場』(とさつじょう)がありました。熊野市には今でも屠殺場が残されています。地方都市では珍しい物です。
 小さな物なので普通の人はどこにあるか知らないくらいですね。
 ほとんどの牛は貨車に積まれて遠くの大きな町の屠殺場に行きました。
 今のようにスーパーとかが無かった時代ですから、大量に食肉を流す大手の業者も無かったですから、それぞれの地方で屠殺・精肉化していたのです。

 全国の農家に牛が居た昭和30年代前半くらいですと、名前の通った、今で言う『ブランド牛』は『松阪牛』と『神戸牛』くらいでした。
 その時代は町の肉屋さんが元気な時代で、訳の分からない『ブランド』ではなく、肉屋さんの看板を信じ、『○○屋の肉はうまい』とか『××の肉は硬い』とか言ったものです。
 やたらブランドがあるわけではないので『銀座スエヒロ』なんかが『松阪牛』を看板にえばっていたものです。

 血統が良く、手を入れて飼育され巨体になった牛は、この辺だと『松阪』に送られました。
 今の『松阪牛』の定義よりは少し広い範囲になりますが、松阪牛を飼育する家に連れられてゆき、『三食昼寝つき』どころか『全身美容マッサージ』に『ビール』まで付いたものすごく優雅な生活をしばらく送って、『役務』で固くなった肉が柔らかくなり、脂が霜降りになるのを待って屠殺されます。
 生まれてから、ボケーっと過ごしてぶくぶく太った牛と違い、肉のうまみは強かったようです。
 牛の優等生を集めて、肥育しなおしたのがおいしい『松阪牛』でした。
 つまり、最後の半年、一年を松阪周辺で過ごした物だったわけです。
 今でこそ、牧場で食肉用に飼育された牛しかなくなりましたが、以前はそちらのほうが少なかったわけですからね。
 と言うことは・・・『食肉のブランド』なんてのは元々あいまいだったわけです。それに、今、売り場にぶら下がっている『△△牛』『□□牛』なんてブランド名はつい近年作り出された物ですから・・・

 無理はないです・・・
 日本人が『牛肉』を食い始めて100年ちょっとなんです。
 牛が『食用』として飼われるようになって半世紀にしかならないのです。
 自分の目で肉を選ぶことが出来るようになっていなくてもね。
 そして、食肉業界に本当のブランド意識がなくてもね。
 そうそう・・・『熊野牛』ってご存知ですか?
 私は食したことも目にしたこともありませんが・・・
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 これは昭和32年(1957)の2月頃の我が家の前の風景です。
 この頃に牛が姿を消し、耕耘機時代になってきました。
 このように狭い丸石で畳んだ道は人や牛なら問題無いのですが、耕耘機とかには合わなくなって、市道・農道整備が始まったのです。
 牛はあの巨体でも人が通れる道だと落ちないで歩きました。耕運機は馬鹿ですから、すぐに落ちて持ち主まで怪我させますからね。
 その流れで、田舎の風景は一変し、古い街道なども消えたのです。

 カメラは オリンパス35S1.9
この周辺です

by je2luz | 2008-06-28 11:39 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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