昨日、『熊野地鶏』について書いていて、『紀和町の雉』を思い出しました。
こちらの方は『熊野地鶏』より古くから飼育されています。
昭和58年(1983)からですから、25年になります。
これも、特産品を作ろうということで旧南牟婁郡紀和町が始めた事業です。紀和町は『山菜の瓶詰め』とか『みそ』とか、次々と村おこしの産品を作り出しました。
役場の職員の一人などは物産展で駆け回り、私は町で見かけてもその人に・・・『おーい、味噌屋』と声をかけたりしたものです。
山菜も味噌もこの辺ではそこそこファンが出来売れていましたね。
もちろん、そうした物は今では『熊野市』の『紀和町ふるさと公社』になっているものにつながる第三セクターで運営されていました。
地場産品のイベントでは東京、大阪、名古屋、三重県下など結構走り回っていた私から見て、紀和町は熱心で三セクにしては良くやっていました。
この雉(きじ)は日本雉を人工繁殖、人工飼育したものです。
もともと、この紀州路は雉の多い地方です。
田圃や畑に雉が巣を作るので、刈り入れ出来ずに丸く刈り残した麦などが昔は良く見られたものです。
雉の飼育は、自然界に『放鳥』することも兼ねて飼育していたように思いますが、この肉を口に出来るのはこれもまた三セクの『瀞流荘』になります。
量的にたくさん生産されるものでは無いので、地盤産品として世間に流通するものでは無いですね。
これも私は一度しか口にしたことが無いです。
『めずらしい』と言うことが一番のとりえの『グルメ』でしょう。
新・熊野市は紀和町を抱き込んだので、熊野市の地場産品が増えたことになります。
旧・紀和町の三セクはそのまま残っていますが、紀和町がなくなったので出資者は熊野市という事になっています。
全国に掃いて捨てるほどある『地場産品』・・・『一村一品運動』とか『村おこし・町おこし運動』とか『地域振興』と言う名で何十年も続けられている施策の残骸でしょうか。
どれも中々続かない物です。
軌道に乗るというより、うまく出来るようになるのにも時間が掛かります。売れるようになる前にやっている人たちが年をとります。
それに、売るほどたくさん作れる物も少ない物です。
採算を度外視した三セク以外ではしんどいのが現状でしょうね。
林業と言う生活基盤を失った山間部の住民にとっては、『小遣い稼ぎ』の地場産品では飯が食えないのです。
かくして、テレビなどでも『うまく行っている』といわれる『村おこし』のある地域でも過疎は容赦なく進行して行きます。
『丸山千枚田』『入鹿鉱山跡とトロッコ電車』『瀞流荘』『湯の口温泉』『雉料理』『山菜料理』・・・観光資源とかにか事欠かない旧紀和町も限界集落化しつつあるのです。
その割りに、頑張ったので見かけはひなびた田舎に見えないところもあります。
でも、やっぱり、山の中の田舎です。
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