LUZの熊野古道案内

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2008年 05月 02日

熊野の旅 郷土史・小競り合い

 良くないことの記録がやたらと多いのが郷土史だと書きましたが、全くろくでもないことが多く書き残されていますね。
 江戸時代には『奥熊野代官所』などと言う出先機関があったので、近郷近在の揉め事に対する訴えが木本に集まってきた面もあります。
 しかし、およそ記録が残されるようになってからはゴタゴタした物が多いようです。
 『大名』と言うものが出来上がって、全国の線引きが固まってくるまでは、ちょいと気の荒い親方が居る所は隣とすぐにけんかをする状態だったようです。
 天下の情勢にはおよそ関係ない程度ですが、有馬の親方が尾鷲までせめて行ったりしたようです。

 昭和の合併以前に存在した行政区画の『南牟婁郡』そしてその下の『木本』『飛鳥』『有馬』『新鹿』とか言う村々の名前や境界は奈良時代とかには固まっていたようです。
 熊野市の場合、地形が複雑で山々に細切れにされた形ですから、そうした集落の境目は自然に決まったところが多いようです。
 細かい境界線では、どうしてここが???と言うところがありますが、集落ではなく、山の中の境界線にあるだけです。

 こうした、山を隔てた集落同士は割りと平穏だったようですが、七里御浜沿いに新宮まで続く平らな部分に点在した集落では、常に勢力争いをしていたようです。
 陸上では親方同士が争い、海では漁師同士が、今で言う漁場争い、漁業権争を繰り返していたようです。
 他所の網を上げてしまったとか、結構荒っぽい争いだったようです。

 こうした争いの伝統は戦後になった頃にもまだ残っていましたね。
 『青年団』などと言うものが盛んだった時代には、こうした集落同士の対抗意識がまだまだ強かった物です。
 祭りや盆踊りの時に違う集落に出かけるのは少々勇気が要るものだったのです。
 場合によっては袋叩きに合うってこともあったのです。

 これが薄れていったのは、戦後の学校制度で『新制中学』ができ、幾つもの小学校が集まって中学が構成されるようになり、幅広く『同級生』『同じクラブ員』が居るようになり、青年になったときにも『他所の連中』ではなくなってきたことがあります。
 おまけに、中学を出るとほとんどの子供がよそに出るようになり、残るのは進学した高校生・・・そうなると、熊野市、南牟婁郡全域が同級生とかに変わります。
 そのうち、『青年団』も成り立たなくなって、広域の『青年会議』だとか『JC』だとかになって、広い範囲がお友達に・・・

 昭和の合併で『村』は消えました。
 昭和の終わりにはすっかり平和になりました。
 平成になって又々広域合併で意識も変わってきます。
 そのかわり、集落ごとの行事なども段々消えて行ったようです。
 と、言うより、喧嘩をするほど威勢の良い若い衆も居なくなってきましたね。
 最近のは『威勢が良い若い衆』のではなく『凶暴なやつ』が引き起こす暴力沙汰のようです。
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by je2luz | 2008-05-02 11:57 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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