LUZの熊野古道案内

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2008年 02月 10日

熊野の旅 奥熊野代官所

 『熊野市』などとたいそれた名前を、昭和の大合併の時、わが町の先人たちがつけたので、名前の上では『熊野』の代表のような形になっていますが、元々は『熊野の端っこ』の場所です。
 本来なら廃藩置県、県境界の画定の時に、新宮などと同じ県に入るべきところが、熊野川と言う区切りよいものがあったので切り離され、三重県になってしまったのです。
 ここは、紀州藩の領地です。
 紀州藩も、分家して新宮藩なんてのも出来ましたが、ここは一揆まで起こして『紀州本藩』にとどまった所です。
 『郡』・『町村』制度ができた時には、隣の有井村などと同じ『三重県南牟婁郡』に入っていますが、江戸時代は『木本』と『井戸』は藩が違ったものなのです。
 お城のある和歌山から見ると、このあたりは地の果てですね。堺や浪速はすぐそこ、京都にも難なく行けるのに・・・
 そんな所ですから、出先機関の代官所が置かれていました。
 その名も 『奥熊野代官所』 だそうです。
 近代に入ってからは、聞こえが悪いのか 『南紀』とよび、近年では『東紀州』などと呼んでいますが、公平に見ると 『奥』 なのですね。
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 場所は今の『天理教南紀大教会』のある場所です。天理教会が立つ前はここに『木本小学校の校舎がありました。明治になったときに町が払い下げてもらって学校を作ったものかと思われます。
 その代官所の門の脇にあった松の木が十年ほど前まで残っていました。
 最後は中が空洞化し、松枯れも始まって周囲に危害を及ぼしそうなために伐採しました。
 写真はちょいと分かりにくいですが、その切り株です。
 今は中に土を入れて花壇状態にされています。
 実にぺらぺらの皮一枚で立っていたような状態だったのです。
 巨木で堂々とした松で、『代官松』とか言われて木本のシンボルだった時代もあったのです。
 自然の状態・野ざらしでの、それも土まで入れての保存ですから、何時までもつのかわかりません。
 史跡として看板も立っていて、この後もしばらくは、ここに『奥熊野代官所』があったことが分かる状態が続くと思われます。
 木本がこのあたりの中心であった証ですね。
 カメラは ローライ・オートマットX
この周辺です

by je2luz | 2008-02-10 11:17 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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