LUZの熊野古道案内

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2008年 01月 12日

熊野の旅 町の移動

 どこの町でも、その中心は時代とともに移って行きます。
 町並みが出来上がると、その町並みはどんどん古くなります。時代の流れに合わせてどんどん模様替えできるものではありません。
 客を呼べる業種、品揃えが時代によって変わりますし、交通事情とか都市計画も大きく作用します。
 ここ熊野市でも、その変化は起きてきました。
 江戸時代に端を発した本町、浜筋の充実が本町商店街を形作りました。木本の老舗はこの本町沿いに並んでいたのです。
 時代が変わって、都市計画で『記念通り』が完成しても、当初は田圃の中を立派な道が通っているだけのようなものでしたが、近代的な歩道の付いた道路と、更地の並んだ条件が新しい店舗を呼び込みました。
 今も残る『こまや』さんが店をそこに構えた時には、まだ商店街の形になっておらず、周囲の人に笑われたそうです。
 昭和の中頃までは、色んなものが本町筋にありました。
 『役場』『警察』『百五銀行』『紀南信用金庫』『電電公社』『本町郵便局』『三重無尽銀行』・・・脇に入ってすぐにある下の写真の建物が『公共職業安定所』・・・
 短い500mほどの間に、こうした公共的な人の集まる施設が並んでいて、町の・・・地域の中心を形作っていました。
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 新しい商店は、『記念通り』にどんどん増えて行き、昭和30年代半ばでしょうか、今の『オークワ』の前身になった、『主婦の店・オオクワ』がオープンして記念通りが商店街としての地位を確立しました。
 公共的な施設も、戦前から引き継いできたような古い建物では手狭でもあるし、駅前や駅裏の沼地や田圃が埋め立てられて土地が確保できるようになると、五月雨式に木本から出て行きました。
 合併してからの『市役所』、『百五銀行』は駅前に、『警察』『職安』などは駅裏に引っ越して行きました。
 こうして、本町通りは主役の座を降りたのですが、こうした移動が起きた時代からは、過疎が始まり、熊野全体の落ち込みが始まった時代でもあります。従って、記念通りが商店街としての首位の座を保ったのはほんの短い期間だけでした。
 かくして、町の中心は動いてゆき、果ては郊外型店舗の増加もあり、町は分散型となって空中分解状態です。
 『世界文化遺産』関連で、本町筋は立派な『石畳』になりましたが、人のすまなくなってきた『過去の商店街遺産』にとっては余り意味の無い感じです。
 ほんの数店舗しか残っていず、平均年齢が65歳を越すような本町筋をどうして興すことが出来るでしょうかね。
 『こけないで歩くのがやっと』のご近所さんばかりです。
この周辺です

by je2luz | 2008-01-12 10:19 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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