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LUZの熊野古道案内

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2007年 09月 10日

熊野の旅 木本上水道

 昨日書いたように木本には水がなかったのでずいぶん苦労しています。
 その代わりに、江戸時代から共同水道が作られていました。
 おそらく、営々と維持管理をしてきたものと思われます。
 近代に入ると明治23年(1890年)に木本町が成立し、その時に西郷川(にしごうがわ)から取水して土管を使って本町筋各所に送る水道が出来たようです。
 しかし、土管の質も悪く漏水するため、明治36年(1903年)に近代的配管による水道が作られたようです。
 本当の上水道は昭和11年(1936年)に正規の国の認可を受けた沈殿、ろ過装置を備えた物が最初です。この当時の全国の上水道普及率は30%ほどでした。田舎町としては正規の上水道が出来るのが早いほうでした。
 それと言うのも。江戸時代から代官所もある中心の町であるのに水に苦労し、色んな形で時代に応じた水道を作ってきた町だからでしょうね。
 この上水道の計画書によると、『給水区域は木本町と有井村一円とし、推定人口11.100人とする。』となっています。一人当たりの給水量は0.0824立方米となっています。今の1/10くらいでしょうか。
 上水道が出来ても、完全に各戸に水道が引き込まれたわけではなく、共同栓と言われるものが使われていた時代もあり、各家にはカメが座っていました。。
 蛇口の数も今のように増えたのは、戦後、それも昭和40年代に入ってからでしょう。
 ちなみに、この上水道の敷地内配管には鉛管が使われていました。私の育った本家の家も当然のように鉛管でした。
 改築や破損などで引き直しをしない限り、この鉛管が生き延びています。敷地内は個人の所有ですから市の方で強制的に取り替えることはないですし、実体は全く分からないのでおそらく、鉛管の残っている家がまだまだあるでしょうね。
 今の熊野市の水道事業の計画給水人口は30.000人です。たっぷり余裕があります。
 写真の後ろの谷あいの西郷川だけが水源だった昭和40年代頃までは給水面積もまだ狭かったのですが、水源不足でお盆の頃には毎年給水制限をする状態でした。
 今では大泊、井戸、奥有馬と水源を増やし、久生屋の水源は使わないままと言うほどです。
 人口もどんどん減少していますし、水源不足が起きる恐れはありません。そのかわり、水道使用量の減少で水道会計がどんどん悪化するでしょうね。
d0045383_1172277.jpg

 カメラは ローライフレックス・オートマットーX
この地図の中央付近にあります

by je2luz | 2007-09-10 11:08 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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