写真は熊野市立飛鳥中学と小阪小学校の間に取り残されたように残っている『教員住宅』です。
昔は学校の周りにはこうした教員住宅が一杯あったものです。
田舎では他所から赴任してくる若い先生が多かったのです。アパートだとか下宿などのない田舎ですし、さらに、先生の給料も安かったのです。だから、こうした教員住宅が建てられて、そこに入っていたのです。
住宅事情の悪かった時代には、小さいながらも一戸建て、もしくは棟割りでも住居が確保されていることは職場として魅力のあるものでした。
田中角栄が教員の給料体系を見直して、二階級特進をやり、他の公務員より優遇して教員の確保に動いて以来、少し給料も良くなりました。
その頃からは日本も本格的に経済発展してきて、若い先生方が教員住宅に入らないことが徐々に増えてきました。
貧しかった頃には、地元の人から野菜などの差し入れがあったりして、交流もあったのですが、段々とそれが若い人にはうっとうしいことに感じるようにもなりまし茶。
かくして、昭和50年代頃になると教員住宅に空家が目立つようになりました。
道も良くなって、ド田舎に住まなくても、もう少し開けた中心部から通勤が出来るようになったことも田舎の住宅に入らなくなった一つの要因でしょう。それに、先生が自家用車を持つようになりましたからね。
こうして、先生、学校と地元の人の繋がりがどんどん薄れて行ったようです。
ちなみに、道路が整備されてからも体系の見直しがされるまでは、この『小阪小学校』は普通の給料なのに対し、国道42号線をほんの少し走った『飛鳥小学校』には『僻地手当て』が支給されていたのです。それを言うなら、熊野市全部が僻地だと思うのですが・・・
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