昭和の大合併の前の飛鳥村立の小学校です。
この飛鳥村は一番上流の大又大久保から始まって、下流の五郷村との境の滑地(なべらぢ)まで、集落は今の国道42号線や309号線から見えている範囲くらいですが、延長は十数キロに及ぶ広いものでした。
最上流に『飛鳥小学校』を作っても小学生が通えるようなものではありません。
ずっと下流に『日進小学校』、中間に『小阪小学校』と結局は一村なのに三つの小学校を持つことになったのです。
それぞれがきちんとした小学校で分校ではないほどの人口もあったのです。
この『飛鳥小学校』は熊野の人は『大又の小学校』と呼ぶことが多いのです。
学校が出来る頃までの飛鳥村はどうだったのか知りませんが、飛鳥村の役場をはじめ、郵便局、駐在所、唯一つの飛鳥中学校など村の中枢機能が隣の小阪地区にあり、村の中心はそちらに見えるのです。本当の地元の人以外にはこの『飛鳥』と言う冠がややこしいので、分かりよいように『大又の小学校』と呼ばれることが多いのです。
飛鳥小学校は今は日当たりの良い田圃の真ん中に位置していますが、元々はものすごく日当たりの悪いところにありました。
国道42号線沿いにある『道の駅・熊野きのくに』のある場所にあり、冬になるとまるで日の当たらないところでした。冬場には運動場が凍り付いてほとんど解けなかったと言うお年よりも居ます。
この跡地は、市有地として残った分は建設残土捨て場として埋め立てられ、戦争当時に畑として払い下げられた分は一段下がった土地として残っていました。細切れに払い下げられ、不在地主化していた土地も地元のお寺の住職さんの骨折りで再び固められました。その後に、道の駅や木工所が建てられて今は何も残っていません。
写真は否の小学校の場所から昔の学校の跡、『鬼の国』(きのくに)を眺めたものです。
たまたま、撮影中に5・6人の子供が昔の正門を通って校庭に遊びに入ってゆきました。
今のこの小学校の児童は一学年数人ですから、これだけでもかなりのパーセンテージなのですね。
元の学校をしのばせるのは、元の正門に通じる川沿いの道と門柱、運動場そして対岸につながる『学校の橋』くらいになってしまいました。
熊野三山と熊野の地図へ ←←←←をクリックすると案内図が開きます。