日本をどう変えて行くかという計画は、明治以降作られてきたわけですが、昭和37年(1962)の制定された、「全国総合計画」から総合的なビジョンが描かれるようになったのでしょう。
そして、
と変遷してきたのです。
田中角栄の「日本列島改造論」は昭和47年(1972)の発表された物です。
国の総合計画とは別物だったのですがバラ色の夢を振りまく力は大きかったようです。
熊野市にも「総合計画」が作られ、旧熊野市でも第一次・第二次、そして合併後の新熊野市でも第一次・第二次と作られています。
最初のは昭和52年(1972)ですね。
「第三次全国総合開発計画」の時です。
第二次が昭和61年(1986)で、この策定には少しばかり関わりました。
こうしたものの常で、民間を含めた委員が招集された第一回目には「素案」という名のほぼ完成品が配布され。表紙を綺麗なものにすれば完成するという形態でした。
三重県の東紀州の計画に呼ばれた時も同じでしたね。
要するに…
「裏判を押せ」ということで、「有識者の意見を聞いた」と言う形作りの手法です。
こうした手法が、市・県・国全てで横行していますね。
そして、こうした素案は「コンサルタント」などと言うのが暗躍して書き上げるのが多いです。
確かに職員だけで書き上げるには荷も重いし、専従の職員は居ないし…
さらに、「有識者」なんて世の中にはそんなに居ませんしね。
もう一つ言えば…
「選ばれる有識者」は「Yes Man」が多いというのも半分常識です。
私が入ると言うことは「当て職」とか「間違い」くらいです。
私を入れると、「再調査」「書き直し」になりますからね。
誰かが言い出すと賛同者は多いのですが「かしこいひと」は自分からは発言しないものなんです。
この旧熊野市の第一次総合計画は夢一杯でしたよ。
レジャーブームなどを当て込んだのでしょうね。
花の窟神社から鬼ヶ城へ
鬼ヶ城から猪ノ鼻へ
駅から華城へ
10本ほどのケーブルカーが描かれていました。
大まじめ?に書いたのでしょうね。
図書館に行けば残されているのでしょうね。
うーーん
中々話が進みませんね。
次あたりには本題に…