鳥取砂丘は風の力でどんどん形を変えるようです。
七里御浜は粒の大きな砂利ですから風で形を変えることはありません。
粒の大きな砂利と言っても水に入れば軽くなりますし、波の力はすごいです。
さらに波は24時間休み無く働きます。
本当に静かな時以外は波打ち際周辺では砂利を転がし続けています。
川も山から転がり出た石を下流に流す間、削り続けて角の取れた丸石にしたり砂に変えたりします。
海はそれを受け取ってひたすら磨き続けますからきめの細かい硬い石は砂利として長く留まりますが、砕けよい物は砂になってしまいます。
大泊や新鹿は紀州御影が山から出てくるでですがきめの粗い結晶の塊なので砂になってしまいます。
熊野川が押し出してくる岩や石は色んな物があります。
那智黒なんかもあるし御影もあるはずなのですが、木本まで来ると御影の石ころはありませんね。
砂になって砂利の下に潜ったり遠くに漂って行くのでしょう。
この砂利は潮の流れの関係で新宮の河口から北に向かって流れます。
何年くらいで木本まで来るのかわかりませんがこっちに向かってくるのは間違いないし、その間に削られて粒が小さくなって居ます。
昔は熊野川からもっと石が供給されていたようで、もっと大きな手のひら大の物も結構あったのですが、今ではほとんど見ませんね。
小豆粒みたいなのが増えているのは供給が蹴っていると言うことだと思います。
その原因は今では国土省もある程度「ダムのせい」と認めていますが、以前は全く認めませんでしたね。
熊野川総合開発の当初の検討会議でもある学者さんは「ダムを造ると土砂の流下が止まり七里御浜が痩せて危険」と唱えたのですが、無視されました。
いつの時代も国家権力とはそう言う物ですね。
波が大きくなる時、春先の海荒れ、夏から秋への台風の時には大きく浜の様子が変わります。
写真は七里御浜最下流の鬼ヶ城西口「木本港」ですが、この港くらいは一晩で埋めてしまいます。
先頃浚渫したばかりなのですが一つの台風で船の入る場所が無いほど埋められました。
こうした砂利浜に港を作ること自体が無理があるのですが、作って以上は維持するという国や県の意向で何に何回か浚渫されます。
かつてかここに船を着けて魚を揚げる漁業者が居たのですが今では釣り客用の渡船が出るだけしかありません。
建物に「活魚」と書かれているのはその名残です。
漁業協同組合も合併したので漁港として維持する意味がほとんど無いのですかどね。
手前に見える水は「西郷川」の河口部分で砂利で塞がっています。
洪水対策で開削しておいた方が良いのですが志原川のようには河口切りはあまりされません。
この様にやってもやっても埋められるのですが、港を守る突き出し堤防も今更作っても・・・