紀伊山地には一杯ダムがあります。
小さなものは農業用の「せぎ」ですね。
これは昔から大水の旅に壊されていました、
この「セギ」程度だと流れを阻害することもあまりない程度です。
紀伊山地にあるダム、熊野川水系にあるものは、戦後の復興を担うため手計画された巨大プロジェクト「吉野熊野総合開発計画」によって作られたものです。
これはアメリカのテネシー川開発をモデルにしたもので、発電用のダムの集団です。
熊野川の二大支流の「北山川」「十津川」にずらりとダムを作って、阪神、中京地区の工業地帯に電気を送るためです。
計画は昭和26年1951年に立案され、現在11基のダムがあるようです。
このダム群は基本的に「発電ダム」です。
「洪水調節機能」などは当初計画には入っていません。
流域に降る雨の一滴までが電源開発などの資産になります。
これはダムの水利権更新時に電源開発と交渉するときにはっきりと宣言されました。
同時に、流域から七里御浜に至る諸問題に関する権利は私たち住民は放棄していますとも言われました、
何しろ国策会社で色んな法律はあちら側に合わせて作られたのですからね。
この流れの先に続いたのが「原子力発電」です。
そうした歴史を踏まえ、私は「熊野原発絶対阻止」を貫いたのです。
ダムよりはるかに怖いのが「原発」ですからね。
あの12号台風関連水害の時には、ダムの放流が雨のピークと重なり、熊野では紀和町が沈み、新宮も冠水しましたね。
それでも、電源開発が出した金は「見舞金」であり、好意に基づくものだったのですよ。
岡山や広島で起きていることもこうした体質の延長なのでしょう。