ようやくつながる 有馬堤防
熊野の七里御浜は名前の通り20Kmに及ぶきれいな砂利浜です。
南の端は熊野川河口で、黒潮の流れ方向もそちらからですから、浜を形成する砂利の流れもそちらが上流です。
北の端は鬼ヶ城の磯になり、その先は志摩につながるリアス式海岸になります。
この、長い砂利浜は昔から高波に苦しめられてきたようです。
そして、熊野川から出た砂利が下流に向かって流れながら堆積し海抜10mほどの高い浜が出来、それが自然の防波堤の役も果たし、内側には沼地が出来ています。
その沼地が貴重な水田となったのだと思います。
しかし、紀伊山地南斜面から海にそそぐ、熊野川・井田川・市木川・志原川・井戸川・西郷川などの川はちょっとした波でも河口をこの砂利に塞がれ、背後地が冠水したのです。
人力で河口の砂利を取り除く「川口切り」で犠牲が出ることもあったようです。
近代になると、市木川・志原川・井戸川では樋門付きの堤防兼道路が作られ、冠水・煙害が軽減されたのです。
それでも、解決されたのではなく、今でも冠水は起きます。
強力なポンプによる排水でも完全解決は難しいでしょうね。 今では背後地の農地も放棄されていて、そちらでの費用対効果は落ちているでしょう。 一部の低地にある道路や住宅の冠水の問題は残っています。 近年の山林の荒廃や異常気象により増えた集中豪雨がそうした被害を大きくして行きそうです。
背後地が冠水しても海岸沿いは一段高いので洪水での被害はないのですが、台風時の高波には苦しめられてきたようです。
奥熊野代官所の記録などでも、「大風吹き○○戸流さる」などと言うのがのべつ出てくるようです。
津波の方でも百年に一度とか同じように被害が出たとか・・・
近代に入ると木本のように町のあるところから堤防が作られてゆきました。
木本などは営々として築いてきた堤防の歴史が先般の堤防改修の時にも見えていました。
今の堤防の基準は「伊勢湾台風」と言うことになっていますが、県が今の木本堤防を設計したときには、木本海岸での波高記録などなかったのです。
基準の波高を尋ねると・・・
「松阪港の記録をもとに計算しました」などとあきれた答えが返ってきたのです。
その時から、私の木本堤防に関する関与が始まったのです。
自然に対して「完璧」などと言うものはありませんが、沖に据えた「潜堤」と合わせれば「最善はつくした」と、言えるでしょう。
木本堤防が出来上がっても、熊野市には有馬町地内に「無堤防区間」が残されていました。
予算とかいろんなこともあったのですが、その区間も今年度でようやく繋がるようです。
有馬は松原がありその内側に国道が走り、昔だとその内側は畑だったのです。
今でも民家から浜までの距離はかなりありますし、海抜も国道でも12mくらいはあるでしょう。
高波での被害はあまり考えなくて良いのですが、「津波」には無堤防では弱いです。
海岸からの距離も高波が走る距離は知れていますが、津波はそうは行きませんから、この「無堤防区間」は怖いものだったのです。
年度末まで半年… 東南海・南海トラフまでに間に合ってほしいですね。
たとえ30mあまりとは言え、堤防がないところがあればこそから浸水し堤防破壊が始まりますからね。
高波の破壊力と津波では全く違いますから・・・
「無堤防区間」が解消されたら、羽市木の堤防の高さ、口有馬からの波返し、さらには老朽化など、検討課題が浮上してきます。
私の目の黒いうちにはできそうにないですが、どなたか、覚えておいてください。