紀伊半島南部が「紀伊山地の霊場とその参詣道」という名前で、ユネスコの世界文化遺産に指定されて13年になります。
その一部に熊野市の逢神峠・大吹峠・松本峠などが入っています。
鬼ヶ城も入っているようですが、この辺は「その参詣道」の部分で、和歌山県側の中辺路・大辺路ほど以前は有名ではありませんでした。
「紀伊山地の霊場」の部分には「熊野三山」「高野山」「大峰山」などの超有名な神社仏閣が入っています。
向こう側は後白河上皇をはじめ皇族方や貴族が都からの「熊野詣」の往復に歩いて、歌を詠んだり歴史書に出てきたりするので、関東方面からの庶民が歩いた「伊勢路」よりは有名でも当たり前だったのです。
この世界遺産指定には当時の三重県知事・北川正恭さんの熱意も大きかったようです。
三重・和歌山・奈良の三県知事によるサミットを開催し、活性化を目指して「世界遺産」に立候補する運動をしたようです。
熊野古道部分は荒れていた部分も多かったのですが、バスを仕立ててお客さんをいっぱい送り込んで実績を作りました。
その流れから、熊野古道伊勢路もこの世界遺産に組み込まれました。
そして、今でも三重県は古道にはやさしいです。
ちょっと微妙な表現ですけどね。
「世界遺産」はどれほど観光客誘致に役立つのか?
色んな見方があります。
昔、「国立公園」ができた時、この辺は一番先に「吉野熊野国立公園」に指定され、鬼ヶ城・獅子岩・七里御浜などが含まれました。
鬼ヶ城は天然記念物にも指定され、獅子岩はその付属物として天然記念物です。
この「国立公園」は当時では大きな金看板だったようです。
関西方面から紀勢西線のはずれ紀伊木本駅(現・熊野市駅)に大勢の観光客を連れてきてくれたのです。
昭和30年代の中ごろでも、紀伊木本駅から鬼ヶ城行きのバスが列車連絡で出ていましたし、新宮からの熊の交通バスも終点を鬼ヶ城にしたものがあったくらいです。
この「金看板」が曇ってきたのは、日本中に国立公園ができてきた頃ですが、だめ押ししたのが「紀勢本線全通」だったと思います。
同じような図式が今も見えていますね。
日本中に「世界遺産」ができ少し客は増えたけど…
「高規格道路」がどんどん伸びて、熊野市が通過地点になりそう…
「人間は新しい物好き」「途中下車は面倒」
「熊野は神々の地」「極楽浄土への入り口」…
それは霊場の話…
本来なら、その道中の苦労も修行のうちでご利益につながるのでしょうけど…
今では「熊野古道」はハイキングコースになっています。
「ご利益」に結び付けるには少し無理があるかな?
何より大事なのは…
ここがお遍路道なら…
地元の人の、「お接待の気持ち」が大事でしょう。
取り立てて拝む対象もない「遍路道」…
沿線の人の「ようきたのう!」という気持ちが伝わらなくては、持って帰ってもらうものはないでしょう。
イベントでは駄目なんです。
それだけやっても「銭」にはなりませんよ。
でも、私たちの「生きがい」と「誇り」にはなるでしょう。