熊野市の中心街は今でも木本町でしょうね。
でも、役者や銀行、商業施設が既に出て行ったし、「紀伊木本駅」(現熊野市駅)は端から井戸町だったし・・・
それでも、合併前から「町制」を敷いて居たのは木本町だけですからね。
その木本町の中心は三丁目界隈だったのです。
町役場、警察署、銀行も三丁目にあったのです。
警察は田んぼを埋めて作った井戸町井土に移ったし、銀行(百五)は駅のそばに一回引っ越し、その後で三重交通などがあった跡地の井戸町丸山に引っ越しました。
町役場は合併で上木本の旧・木本町公会堂に移り、新庁舎を建てる時に、今の井戸町に引っ越しました。
建物で残されたのは木本町役場で、大きなものなので、雑貨屋とボタン屋で半分ずつに使っていました。
ボタン屋さんが改築した時、役場の建物は半分に切られましたが、木造なので綺麗に切れました。
そして、残った半分は今でも、雑貨屋「丸田商店」として営業しています。
個人商店が消えて行く中で、ここは、「くんどの輪」から「焙烙鍋」「吊り下げ式の便所の手洗い」まで、何でもある、何でも取り寄せてくれる、と言うことで捜し物する人が訪れる店で残って来ました。
これが丸田商店の二階屋根裏にあった木本町役場の「棟札」です。
明治39年(1906)年ですね。
当時の木本のお歴々ですが私の知っている人はいません。
「栃尾九兵衛」の名が見えますが、「九兵衛」さんは私の知っている商工会議所会頭、鬼ヶ城観光開発の社長さんとは別人のはずです。
この栃尾さんは「笹九」という屋号の旧家で、法律で認められた「世襲制の名前」を使っていました。
おじいさんになるくらいでしょうね。
木本の旧家では奥川家がないくらいでしょうかね。
そんなに古い旨札でもないし、建物も半分になって居るとは言え、これは木本町にとっては文化財でしょう。