LUZの熊野古道案内

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2016年 02月 22日

熊野の旅 ここに何があった?

 町という物はどんどん変わって行く物です。
 道などはさほど変わらなくても、周りの建物などで随分違ってしまいます。
 道路なんて、都市計画とは出変更されないとそんなに変わりようが無い物です。
 私は今でも東京都内の西よりはそこそこ車でなら走れます。
 「東京は変わった」と言いますが、道はそんなに変わっていません。
 建物が変わって風景が違うだけのところがほとんどです。
 だから、車で移動する分にはさほど不都合は無いわけです。

 尾鷲や新宮は町中に新しい道を付けていますが、熊野は木本では皇紀2600年に記念通りを通したし、井戸町駅裏は昭和30年代から埋め立て造成してので一応都市計で出来た町です。
 いま、土木業者が四苦八苦している「万町」が出来た時に大きく変化したのかな?

 でも、道の脇を見ると万町以外でも…
 記念通りに入って、すぐは「国鉄バスの車庫」向かいは「熊陸」というトラック屋と「万熊自動車」そして「郵便局」その先左は「木本農協」「関西電力」、向かいは「木本小学校」・・・
 で・・・
 残って居るのは「木本小学校」だけですね。
 でも、記念通りの道は同じなんです。
 こんな建物群なんて、木本の人出も忘れちゃったでしょう。
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 この建物とタワー・・・
 今では熊野市の目印的ですが、ここに「熊陸」があり、銀ねず色のボンネット型トラックが居たのです。
 この建物は電電公社の交換機室として作られたのだと思います。
 このどでかいタワーが作られたのは、電話回線がマイクロウェーブになった時、熊野市で一番ロケーションの良い「長尾山」の中継所を結ぶパラボラアンテナを載せるためでした。
 大きなパラボラが載っていたのですが、時代が光ケーブルになるとマイクロウェーブが使われなくなり、パラボラが取り払われました。
 今では、こんな立派なタワー出なくても良いはずの携帯電話のアンテナなどがちょこんと載っています。

 「熊野市のシンボルだ!」という人も居ますが、下の建物に対しタワーが大きすぎるので私などは嫌な物です。
 勿論、「免震」ではありませんから、十分な耐震構造にはなって居るのでしょうけどね。
 力学的には不安定そう・・・
 タワーの撤去には巨費が掛かるのでしょうね。
 直下型は起きないでしょうけど・・・

 横の会館のところに郵便局があった頃・・・
 郵便物は汽車で来ました。
 時間になると郵便局の人達がリアカーを引っ張って駅まで・・・
 郵便は客車に繋いだ「郵便車」で付くのですが、停車時間が少ないし、もの凄い勢いでホームに投げ出され、その「郵袋」の上に乗っかって次のを引っ張り出す・・・
 その頃の小包ってぼろぼろになって当たり前でしたね。
 おまけに、「春闘」が始まると、「全逓」だけで無く「国労」「動労」なんてのもストをやりますから、いつ着くのかなんて、誰に聞いても解らなかったのです。
 こればっかりは「古き良き時代」とは言えませんね。
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         1959(昭和34年)熊野市駅
 この辺の製材所の製品も「貨車」で東京送りだったのですが、昭和30年代から40年代には熊野市駅か「大泊駅から東京恵比寿貨物駅まで早くて一週間・・・春闘だと当てにならない・・・
 だから、まだ、42号線も矢ノ川越え、全線砂利道、東海道も一部地道の時代にトラック便に切り換えていったのです。
 当時の8トン車10トン車と貨車では積載量は全く違ったのですが、時間の読めるトラックに負けて行きましたね。
 上手に運用すれば、大量輸送、省エネ輸送には鉄道の方が向いていたのですけどね。



    

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by je2luz | 2016-02-22 04:18 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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