LUZの熊野古道案内

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2016年 02月 01日

熊野の旅 昭和まで少し残って居た昔 2

 さて、ガキ大将が健在だった頃の田舎のガキやアマ(女の子)どもはどうしていたのでしょう。

 普段はその時その時の遊びがありました。
 私は飛鳥村小阪で物心つき、小学校の高学年になる頃に合併で熊野市飛鳥町小阪になりました。
 低学年・・・小学3年生頃までは比較的ひ弱で温和しい子だったのですが、三年の時に戦後の認定で教員になった先生が「講習」とかで三重大などへ学年途中で行ってしまい、繋ぎは校長先生。担任は3人交代したのかな?
 そんな環境で真面目に温和しくするのが馬鹿らしくなり、「餓鬼魂」が目覚めて、暴れ出しました。
 図体はでかい方でしたから、寝覚めちゃうと、やってみれば喧嘩もそこそこ強いし・・・
 昭和の中頃まででしたから、学級崩壊だとかにはならずに、猿山の地位入れ替えで済んだのです。
 勿論、その頃の先生は担任じゃ無くても怒り飛ばしましたし、下手するとどづき倒されましたからね。
 作法通り、喧嘩で登って行くわけです。
 こっちが悪くて先生にどづかれるのは納得出来ましたが、濡れ衣とか気分で怒るのは許せませんでした。
 日本はずっと批准しませんでしたが、国連で「児童憲章」が採択されたのは低学年だったのですが、意味も無く怒った校長を掴まえて、「児童憲章知らんのか!」などとたてついたのを覚えています。
 まあ、ややこしい餓鬼だったのでしょうね。

 遊び・・・陸の上の分
 「ケン」=めんこ
  これの図柄は流行りがあり、野球選手だと「川上・青田・千葉・小鶴」なんてのが人気でした。「鞍馬天狗」なんてのもありました。「冒険団吉」「ハリマ王」「紫ずきん」なんてのもあったし、祭のテキ屋さんの売れ筋でしたね。
 新品は硬くて地面の沿わないのでわざと端をふやかしたり、蝋で加工して重くしたり・・・使う時に水を浸ませるのは御法度でした。

 「ビー玉」・・・まだそんな気の効いたのはほとんどありませんでした。
  「むくろじ」=椋の実・・・黒いはねつきの羽根の玉の部分
   これをビー玉代わりに使いました。採れるのは隣の佐渡の墓・・・そっちの子供の目を盗んで拾うのが大変でした。
   「三角」「ドボン」「目落とし」など色んな遊びがありました。

 「釘打ち」・・・4寸か5寸の釘を地面に投げて立て、迷路のように縄張りを広げ進めなくなったら負け。
  細かい事が出来るように二寸釘とかの先を細くとがらせたり・・・腕の見せ所でした。

 「将棋」・・・低学年ははさみ将棋、大きくなれば「本将棋」、昔の男の子はほとんど将棋が出来ましたね。

 「独楽」・・・この辺は「べーごま」はやりませんでした。 回る時間を競ったり、手に載せた状態での鬼ごっこなどしましたね。 低学年で直に手で受けられない子は缶の蓋が許されたり・・・ あとは紐に乗せる綱渡りとか・・・

 「缶蹴り」・・・今の公園だと隠れるところも少ないし、困るでしょうね。

 「竹馬」・・・高学年は自分で作りました。 高いのに乗れるのが自慢だったり、片方のを担いで片足で走ったり、鬼ごっこしたり、転んで擦り傷作るなど親は怒らない時代です。

 「缶から馬」・・・二つの空き缶に紐を付け、コッポンコッポン歩きます。

 「輪回し」・・・たらいのタガの針金、自転車のリムなどを転がしながら走り回ります。

 「陣取り」・・・色んなルールがありましたが、それをきちんと守らせるのもガキ大将の権限だし義務でした。

 「缶蹴り」・・・これも、その場所でローカルルールを決め危なくないようにして居ましたね。

 「縄跳び」・・・女の子が多かったですが、一緒に遊びたいと入れて貰いましたね。

 「ゴム跳び」・・・輪ゴムが出てくると流行りました。 ルールも色々、女の子の提灯ズロースが丸見え・・・高学年になるとスカートを挟んで隠したりしていましたね。  でも、低学年の子などは道端でおしっこしていた時代ですから・・・

 「かくれんぼ」「鬼ごっこ」なんてのも当然やって居ました。

 「戦争ごっこ」・・・鉄炮は木で自作、戦後すぐで戦争に関する物は進駐軍に禁止されても子供の世界で生きていましたね。 山の中に陣地を構え・・・小阪を上下に分け常時対戦して居ました。 おかげで、子供でも里山の地形は詳しかったです。

 「チャンバラ」・・・これも流行りがあり、「鞍馬天狗」が何人も居たり・・・

 「相撲」・・・冬が多かったですが。星取り表作ったり・・・東富士・照國・千代の山・三つ根山・・・
 雷電や谷風の時代ではありませんよ。

 「草野球」「三角野球」「板のラケットの簡易庭球」「ドッジボール」なんてのもあったし・・・

 まだまだあります。
 陸の上だけでも一杯ありますから、これらを5歳から12歳までの7年、2560日、その中の晴れの日にこなすのですから、変なこと考えて居る暇は無かったのでしょう。
 みんなと折り合い付けないと遊べないし、折り合いを付けさせないとガキ大将は大人に叱られるし・・・

 この記事は続きます。
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 この写真は昭和37年(1962) 五郷町東郷 七色ダムで沈む予定のところに住みついた人達です。
 「さざえさん」の世界ですよね。
 この頃は正真正銘の「昭和」なんですね。

    

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by je2luz | 2016-02-01 04:25 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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