LUZの熊野古道案内

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2015年 11月 29日

熊野の旅 村の道から市道本郷平線へ

 昭和35年当時になると、世の中に自動車が増えてきました。
 それと共に、自転車やせいぜいリアカーがやっとだった村の道が車の通れる「市道」に改良され始めました。
 勿論、用地などは無償提供です。
 生活が生まれ変わりますからね。
 偶然に近いのですが、そうした工事風景が写されたネガがありました。
 場所は飛鳥町小阪字平・・・
 私の実家方向から中学校の吊り橋方向で、岩本と中村の家が写っています。
  中村の隠居は写っていませんね。
 工事は素の道から一段下がった田んぼ、「こせばち」から石垣を積み上げて道を広げる物です。
 石屋さんが積み上げる旧来の工法ですね。
d0045383_23252192.jpg

 元の道は嫌カークラスの道ですが、自動車が入るためには、この上流の崖の部分を広げる難工事かどこかに橋を架け直すしかない地域だったのです。
 集落内は「平・だいら」と言う名前の通り小阪では一番平坦で道は作りよかったのですが、どう県道や国道につなげるかが難問でした。
 この道は集落の一番下まで行って、今は永久橋「淺見川橋」になっている場所で、吊り橋を架けて大又川を渡りました。
 上流へは崖を削り本郷と結んで行きました。
 これでも、この工事は早いほうですね。

 中学校の所の吊り橋は、国道42号線が昭和44年とかに改良され、今の位置、川沿いになった時にコンクリート製の車が通れる物になりましたね。
 この橋も、当初の地元説明とは違う入り口が広くなっていない物が出来てもめた物です。
 当時の国道工事は地元だましが常識だったようです。
 鬼ヶ城トンネルも当初案には歩道があったのだとか・・・
 そんな話を聞いているので、今の私はお上の言うことを真に受けないことにしています。
 でも、今でも騙されます。
 原発に騙されなかっただけましでしょうかね。

 この写真を良く見ると、手前の岩本の家の納屋と向こう側中村の納屋二つの屋根は「杉皮葺き」ですね。
 杉皮で葺いて丸太を置き、川原の石で押さえてあります。
 この頃にはこの屋根も残って居ました。
 トタンが出てきてトタンに葺き替えたり、当時流行って小阪でも作られたセメント瓦に葺き替えたりして急速に消えて行きましたね。
 残念ながら私にネガではこの「杉皮葺き」のきちんとした写真が無いのです。
 
 他所にあるような分厚く葺いたものでは無く、ほんの数枚重ねた物で、それ自体では風に耐えられないので、足場丸太を置いて石で押さえるという簡易的な物だったのです。
 これが熊野地方の典型的な屋根だったのです。
 この屋根はムカデの大好きな材料を使っていたのでムカデが居て当たり前だったようです。
 昔はこの地方の家には「ムカデを食用油に漬けた塗り薬」が常備されていました。
 2代目市長、坪田さんの話では、国鉄バスで旅をした人はこの屋根が並んだ光景を見て、「なんと貧乏な土地なんだろう・・・」と感想を述べたそうです。
 農地も少なく、材木の搬出もままならない奥熊野は貧乏だったわけです。
 今も同じ年金でも国民年金の人ばかりの熊野は低所得ですね。
 この地方には「お屋敷」などと呼べる旧家もほとんどありません。
 戦国武将も取りっこしないほど石高のないところですから・・・

   

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by je2luz | 2015-11-29 04:13 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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