LUZの熊野古道案内

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2015年 11月 11日

熊野の旅 大河熊野川 運んだもの

 熊野川が運んだもの・・・ 
 一つ前に「筏」に触れました。
 私が小さな頃、北山川にはまだ筏流しのための積(せぎ)がありました。
 小さくて水量の少なく、筏を流す力の足りない上流部、下北山村などには川を堰き止めて水を溜める木製のダムがありました。
 筏を浮かべ、堰き止めた水が一杯になったら堰を切るのです・・・
 まさに「堰を切った勢い」で水と一緒に筏が駆け下るのです。
 今だったら、労働基準局に禁止される荒技ですね。
 そんな風な苦労をしながら丸太を河口の新宮まで下したのです。
 そんな筏乗りさん達は帰る時は陸路歩いたのです。
 その道筋として色んな山越えの道が開かれたようです。
 そして、この筏流しを通して上流から下流までの交流が生まれ姻戚関係も出来た様です。
 その名残か、紀和町の人達は新宮に向いて生活していますし、和歌山県の飛び地として東牟婁郡北山村が運と上流に存在するのです。
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 熊野川が運んだものとしてもっと大きいのは、七里御浜を作った砂利ですね。
 新宮の平地は出来てしまえば完成でしたが、七里御浜は前の太平洋にどんどん砂利が落ちて行きます。
 それを補充し続けて何千年も何万年も陸地を守ってきたのです。
 途中では陸地がうんと低くて今の七里御浜などは海深くだった頃もあるようです。
 木本周辺の山の上や紀宝町の山の方にも海食の跡の残る岩がありますし、御浜町の陸地深く、神木(こうのぎ)なども浜砂利です、
 隆起しても沈んでもずっと砂利を補充してきたのがたった一つの大河、「熊野川」です。
 一体どれだけの量を運んだのでしょう?
 紀伊山地の南斜面の川・谷の形が出来た時に書き出された土砂はそっくり流れて今の新宮の所から太平洋に出たはずです。
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 この様に、時を越えて熊野川が運んで作った少しの平地に新宮・鵜殿・井田・阿田和・市木・神志山・有馬・井戸・木本が出来たのです。
 そのバランスを崩したのが「熊野川総合開発」のダム群と突き出し港の「鵜殿港」でしょう。
 何万年とかの長さで考えれば、自然の状態でも「浜の真砂」もつきるかも知れませんけどね。
 でも、大した力は無いのに、変な細工をしたばっかりに60年ほどで七里御浜が死にかけました。
 60億円掛けて、木本海岸は潜堤で今は守られていますが。そんなの遠くない時に砂利の補給が聞かなくなるでしょう。

 熊野川が運んでくれたのは砂利では無く「生活圏」だったのです。
 こんな犠牲を払っても、「原子力発電所」よりはましでしょうね。
 熊野にはこれに加えて「熊野原発」まで作られ掛けたのです。
 私が市議会議員になったのは・・・
 「原発を止めるため」でした。
 原発は止まったけど、ダムは残ります。
 耐用年数が切れた時・・・
 さて、日本はどうするやら・・・
 治水をやれば海岸浸食は止められない・・・
 でも、紀伊半島に住む人も居なくなるから・・・
 
   

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by je2luz | 2015-11-11 04:27 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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