LUZの熊野古道案内

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2015年 02月 05日

熊野の旅 紀勢西線 行き止まりの駅

 全通まで、紀勢西線の終点は紀伊木本駅でした。
 でも、木本駅から先にもトンネルは掘られていました。
 戦争で中断されるまでは、どんどん延長して紀勢東線と結ぶように頑張って居たようですからね。
 木本高校の所にある鉄橋も古いものです。
 紀勢線の工事が再開されて延長が始まると、新鹿まで一時的に旅客列車も入りました。
 高校の遠足で新鹿まで乗りましたが、客車が足りないので、無蓋車にクラス全員乗り込みました。
 買い出し列車でも引き上げ列車でもありませんよ。
 昭和34年くらいだったと思います。
 いまのJRなら乗せてくれませんよね。
 その延長前から、紀勢西線は大泊まで走っていました。
 貨物列車が「熊野川総合開発」のために国策で走ることになったのです。
 大泊から、「七色ダム」「池原ダム」の巨大なダムの資材を、運んだのです。
 国道42号佐田坂も出来ていたし、その先の国道169号の局所改良で池原へ・・・
 七色向きには、五郷桃崎で分かれて「電源道路」が作られたのです。
 それが今の国道169国道になったのです。

 日本一大きなアーチ式の池原ダムと同時に揚水ダム用の水溜を兼ねた七色ダムと二つのコンクリートと発電所の資材ですから膨大な量だったでしょう。
 補償と工事費で金がうなった時代です。
 山の中に、バーやらクラブやらいかがわしい店やら映画館やらが出来、ついでに殺人事件まで・・・
 木本の商売人も現場近くの神川・上下北山村などへの卸で潤った時代です。
 一時的なダム景気ですけどね。
 大泊の駅は貨物駅として結構繁盛して、「住友セメント」「小野田セメント」二つのプラントが並んだのです。
 ダムに続く戦後の建設時代・・・コンクリートの時代に入ったからでしょう。

 ダムが終わってもしばらくは貨物の扱いをやって居ましたから、私の家の材木もここから貨物に乗せられて、東京に向かいました。
 たき物(薪)なんてのも東京に向かいましたが、それは熊野市駅からでしたね。
 その頃の国鉄貨物は「丸通」という、得体の知れない国策会社が扱っていたのです。
 「丸通」が『有名になったのは「金の延べ棒事件」と言うやつで、役員が金の延べ棒を山分けしたのです。
 電力料金などと同じで「要るだけ請求」だったのですから・・・
 今は、日本郵便に一部吸収されたようですね。

 そうして賑わった「大泊駅」の名残の貨物引き込み線も外されてしまうし、今の残って居るセメンのホッパーへの搬入は随分昔からトラックになっちゃいましたね。
 今は「保線区」の車両とか資材が置かれますが、人間は紀伊長島へ自動車で行っちゃうようです。
 時代ですね。
d0045383_22394713.jpg

 特急で通過する人とかは気がつかないでしょうけど。単線でホームも一本のの片側しか使っていないのに、何となく構内敷地は広いのです。
 高速道路側に線路二本分くらいの余裕が残されていますからね。
 使い道が無いので払い下げもされていません。
 このブログを始めた頃には、使わなくて錆びては居ましたが、線路が残って居たのですけどね。
 写真の整理が悪いので見つけられませんが、フィルムで撮った写真があるはずです。
 季節は春、桜の季節の写真の筈です。
d0045383_22512197.jpg

 草が生えているあたりは線路だったのです。
 ワイドレンズの関係で潰れて見えますが、トンネルは高規格・熊野尾鷲道路です。
 鉄道からも一気に客を奪っています。
 何しろ「ただの高速道路」ですからね。
 血はトンネルの出口は新鹿インターです。


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by je2luz | 2015-02-05 05:09 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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