LUZの熊野古道案内

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2015年 01月 21日

熊野の旅 天然良港 二木島湾 2 避難港

 日本は四方を海に囲まれ、古代から海運が発達していたようです。
 紀伊半島は熊野灘があり黒潮が岸を洗うように流れているので、もの凄い難所だったようです。
 日本海軍の軍艦乗りでも熊野灘は嫌がったとか・・・
 まして、手漕ぎや風だよりの時代は。少し沖に出れば黒潮に流され、いきなり伊豆沖・・・下手すりゃあカナダまで・・・
 岸伝いに来れば岩礁はあるし、海賊は居るし・・・
 海運が日本海側の方が発達したのも納得出来ます。

 紀伊水道の出口には「枯れ木灘」そして激流の「潮岬」 それから先は岩礁だらけ・・・
 時化に遭えば逃げ込む港もあまりありません。
 太地・勝浦を過ぎれば、一見穏やかに見えますが、荒れたら逃げられません。
 いちばん近い、時化を避けられる湾は「二木島湾」です。
 いまでも、緊急避難で汽船が湾に入ることもあるようです。
 ここを出たら、賀田湾とか入り江がうんと増えるのいですが・・・

 こうした地形からでしょうか?
 大昔の「神武東征」のときに時化でこの湾に逃げ込んで遭難した・・・なんて言われます。
 そして、その時の謂われから出来たという「船こぎ祭り」は中学生が手漕ぎの和船を櫓で漕いで競争するものだったのですが、ここの「荒坂中学校」も無くなって、祭りも出来なくなりました。

 そして、古くからの避難港だったので、戦後の「売春防止法」が出来るまでは「女郎屋」があったのだそうです。
 勿論木本や新宮にはありましたが。小さな漁村なのに・・・
 「イタコ一枚下は地獄」と言われた時代、時化で逃げ込んだら、納まるまで一週間も逗留するのですから・・・
 今の時代の尺度で測れば「いけないこと」かも知れませんが、その時代では当たり前だったのです。
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 そんな時代、良港で良い漁場があっても大きな町から遠かったら「漁」で稼ぐのは大変だったでしょう。
 鰯だってニシンだって昔は「肥料」として出荷されていたのですからね。
 陸の孤島のこの辺りでは肥料ですら出荷は大変だったでしょう。
 こうした面も、今の尺度では測れませんね。
 道路(新道)が出来たのも鉄道が通ったのも昭和30年代です。
 時、既に漁業の衰退が始まっていたのです。
 そこそこ稼いだ人は居ても、「鰤御殿」とか「鰊御殿」などと言う夢は無かった様です。
 戦中戦後の乱獲がたたったのでしょうか?
 私が子供の頃、木本の大敷きやサンマ(さいれ)も不漁の連続でしたね。
 船は減るし、若い衆の跡継ぎも一気に減りました。

 二木島の方が良港なのに、大合併した漁協は遊木港の方に力を注ぎます。
 どちらも手狭で大きくは伸びられないのですが、「遊木のサイレ」と言う業界では通用するブランドも大きいのでしょうね。
 それに、ほんの少し、高規格道路に近いと言うことも・・・
 と、言いつつ、トレーラーでどんどん運ぶほどの水揚げはありません。
 そんなんだったら、今の加工場からの搬出路は失格なんです。
 私から見ると、リフトの運転にも十分注意して貰いたい位なのです。
 フォークリフトを倒すと死亡率がもの凄く高いからです。
 議会の委員会でも注意喚起はしたのですが、現場に伝わっているのでしょうか?

    
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by je2luz | 2015-01-21 04:30 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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