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LUZの熊野古道案内

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2014年 12月 29日

熊野の旅 行商・持ち売り

 大正から昭和へ掛けて、全国で行商が盛んになったようです。
 全行程歩きの時代では運べる荷物が少ないので遠くへ行くのも大変だったでしょう。
 鉄道がどんどん広がると、人間だけでは無く、荷物も沢山運べるようになりました。
 自分は持てるだけ持って汽車に乗り、持ちきれない分は鉄道で送って貰えるようになったからです。
 遠くに行く行商の人は「定宿」が決まっていました。
 それも、今のビジネスより安い宿が用意されていたのです。
 「木賃宿」などと呼ばれる物です。
 元々は自炊するときの薪代で泊まれるという意味だったようですが、行商の人達は低料金で食事も付いた宿屋を使っていたのですが、安い宿の代名詞として「木賃宿」という言葉だけが生き延びたようです。

 私の家の近く、井戸町に入ってすぐの所に、この辺の人が「木賃宿」と呼ぶ旅館がありました。
 割合と近年まで看板だけは揚がっていたのですが今はありません。
 建物は昔のままで残されていますし、住居としては使われているようです。
 私が高校とか大学当時には薬屋さんなどが泊っていたようです。
 ちなみに、全国的には薬屋さん=富山ですが、この辺では薬屋さん=大和なんです。
 とやまとやまと・・・ややこしいですが、奈良県大和も修験者も居たし薬草の産地なので行商の薬屋が昔から居たのです。
 富山が「越中富山の万金丹」 なら、 大和の方は「陀羅尼助」ですね。

 遠くから定期的のやってくるのは薬屋さんでしたが、山間部や海岸線のように商業が成り立たない所が一杯あったので、木本などその地方の中心の町からは、近在向けの行商人が生まれました。
 この辺では「持ち売り」と呼ぶことが多かったです。
 昨日の「魚屋さん」もそうですね。
 他には昭和になる頃までは「反物」だったようですが、私が子供の頃には洋服になって居たので、「服の持ち売り」も盛んでした。
 洋装の「アッパッパ」などと言われるワンピース、ズロースにシミーズ・・・
 仕事着の「モンペ」「野良着」「手甲」・・・
 ちょいとしゃれた「麦わら帽」「スカーフ」・・・
 戦後の一寸強くなりかけたご婦人方が待ちわびていたようです。
 農協の購買より少し気の効いたやつを持って歩かないといけなかったとか・・・

 この「持ち売り」から店を構え大きくなった人も居ます。
 「スーパー・オークワ」の創始者さんもここから身を起こしたようです。
 「主婦の店」という風車のマークのスーパーチェーンが出来ると、木本に店を構えました。
 「主婦の店・大桑」です。
 それが発展したのが「スーパー・オークワ」なんですよね。
 今でも、うんと年寄りは、オークワのことを「主婦の店」と呼んだりしています。

 他には記念通りの洋服屋さん「こまや」さんもここからですね。
 紀和の鉱山などもよく売れたそうです。
 当時としては数少ない現金を稼ぐ人が大勢居たのですからね。
 魚の持ち売りから大きくなった人も居ますね。

 アメリカンドリームじゃないですが、立身出世が若者の夢だった時代・・・夢をつかんだ人も居たわけです。
 一山当てる・・・のではなく、こつこつと積み上げていった人達ですね。
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 昭和の中頃まで・・・
 集団就職で東京や名古屋・大阪に中学出の子供達が出ていった時代・・・
 就職先はそんなに良い会社などでは無く「蕎麦屋」「クリーニング屋」「町工場」などの中小企業どころか零細企業がほとんどだったのに、頑張って、自分の店や工場を作った人も多いです。
 今の客のように看板だけの「有名チェーン」を追いかける人が少なかったので、店を持てたのでしょう。
 ここでもやっぱり「情」の問題があるようです。

  

  

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by je2luz | 2014-12-29 04:17 | 熊野


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