タイトルのようなキャッチフレーズ・・・
「乗って残そう紀勢線」 なんてのが、あちこちで目に触れた時代があります。
国鉄合理化、廃線やら第三セクターへの払い下げの計画や噂が飛び交った時代です。
紀伊半島の海岸線をネックレスのように縁取った、『紀勢西線と紀勢東線』そして、繋がってからの『紀勢本線』なのですが、全通しても黒字なんかにはなりません。
合理化の対象になり得るというので、こんなキャッチフレーズで存続運動が始まったのです。
その頃には、国道42号線は矢ノ川峠越えが大又トンネルと矢ノ川トンネルの完成で大幅に短縮され、全線二車線改良されました。
1970年頃ですね。
道路が良くなれば自動車がのさばります。
バス会社も「南紀特急」なんてのを走らせて、南紀と松阪・津を結びました。
鉄路とは少し違うルートを走る道路ですから、人によってはそっちが便利だったのです。
客の奪い合い・・・
共倒れ状態です。
この「乗って残そう紀勢線」の運動は、住民?を巻き込んでの陳情運動もやって居ました。
そこで生まれたのが、ブラックユーモアみたいな光景です。
「乗って残そう紀勢線」のご一行様がバスを仕立てて津や名古屋へ陳情に・・・
本数の少ない紀勢線の列車では、思う時間に行って、思う時間に帰れない・・・
陳情先に行くのも現地で大変・・・
ローカル鉄路の限界もそこには出ていました。
その前には、「紀勢線近鉄に身売り」なんてのもささやかれました。
「買ってくれるのなら売っちゃえば!」と私なども思いました。
私鉄の方がサービスが良くて安い・・・
そんな状況が大阪・名古屋・伊勢の近鉄路線では起きていましたからね。
それに、近鉄は伊勢湾台風の頃にほぼ全線「標準軌」改良をしたのですから、近鉄になれば標準軌化して時間短縮が期待できる・・・と言うのもありました。
でも、売らなかったのか、買わなかったのか・・・
国鉄民営化で、新宮から和歌山方面は『西日本旅客鉄道』、鵜殿から亀山方面は『東海旅客鉄道』に分割されました。
「西日本旅客鉄道」は電化しても、「東海旅客鉄道」は気動車のまま・・・
相互乗り入れも出来なくなりました・
東海の気動車は西に入れても、西の電車はこちらに来られません。
ダイヤも乗り継ぎをあまり考えていないようだし・・・
さらに、高速道路、高規格道路も紀伊半島に降りてきました。
ますます、旅人が分散されました。
鉄道も一般国道も高速も・・・
それぞれが閑散とした光景になりそうです。
どれも勝者無し・・・
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