これは50年前の熊野市駅です。
ほんの少し前まで「紀伊木本駅」だったのです。
紀勢本線の全通と共に駅の名前が変わっちゃったのです。
そして、紀勢西線の終点のここから紀勢東線の尾鷲までの鉄路の無い区間を結んでいた「国鉄紀南線」というバス路線も消えたのです。
この写真を拡大すると、バス乗り場の看板が「紀伊小阪方面」と変えられています。
熊野市の交通体制が大きく変わった時です。
そして、駅前や木本・井戸松原などに在った旅館の衰退が始まった時です。
尾鷲までが巡航船だった時代が一番旅館が流行った頃で、矢ノ川越え2時間40分のバスの時代も乗り継ぎの関係と体力の関係でここに泊る人も結構居たのですが、汽車を降りなくて済むようになって、当然のように降りる人は減るし、泊る人は激減しました。
私の記憶にあるだけでも。亀齢館・御浜館・よし住旅館・日の出館・朝日館・淸玉旅館・一松旅館・酒甚・・・もっとありましたからね。
紀勢線全通の前には、「交通の便が良くなって町が発展する」と言われたのですけどねえ・・・
写真にもありますが、材木や薪などが貨車で東京送りできるようになったので、少し潤ったのですけどね。
この少し後になり、我が家が製材所を再開した頃には貨車で材木を東京に出しました。
大学の頃には恵比寿の貨物駅に家の製品が着いていたのです。
そして、ほんの少しの間にトラック輸送に変わりました。
紀勢線が華やかだった時代って在ったのでしょうかね?
学生時代には寝台急行「那智号」で東京とを行ったり来たりしました。
盆とか正月には予約しないと寝台には乗れませんでした。
大きな荷物は「チッキ」で送りましたが、これはどうやら「チケット」の変化したもののようです。
「手荷物」という扱いでしたからね。
手荷物なのに東京まで一週間掛かったり・・・
春闘の頃には何時になるやら・・・
これは貨車に積んだ材木も同じでしたから、道路が少し良くなったら貨物をトラックに取られて当たり前だったのです。
でも、この写真の頃には夢の紀勢線全通で湧いたのです。
ちょうちん行列も在ったはずです。
まあ、高速道路ではしゃぐのも無理ないでしょうかね。
寝台車は「ハネ」でしたね。
そして切符もまだ三等だったかな?
切符の三等が無くなっても車両区分の「ハ」「三等」は残ったようです。
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