徐福さんって、「秦の徐福」と呼ばれますが、実在の人物で、秦の始皇帝に命じられて日本に「不老長寿の薬草」を探しに来た人です。
始皇帝は世界中にこうした薬草探し隊を派遣したとか言われますね。
絶大な権力と財力で何でもありで試したとか…
若い女性から若さを吸い取るなんてうらやましいのも試したとか…
たどり着いたのが「水銀」だったとか…
始皇帝が派遣したものですから、徐福さんの一行もものすごく大勢だったようです。
東京オリンピック流に言うと、「大デレゲーション」とやらでしょう。
そんな大部隊が波田須に上陸するのは困難ですし、大混乱になるでしょう。
でも…
「波田須・はだす」は「秦住む」から来たと言う説もあるくらいですから、「秦・はた・秦・しん」ですから、縁があってもおかしくないです。
本体ではなく日本各地に調査に赴いた、旅団?師団?大隊?中隊?小隊?がたどり着いたのかもしれません。
波田須に秦国人が住み着いたとしても、大昔のことなので秦国流の風習が残っていると言う風でもないですね。
顔つきが違うでもなし…
よく分からないところが良い所でしょう。
いろんなことは意外に早く忘れられる物ですからね。
伊勢湾台風も東南海地震も太平洋戦争もほとんど忘れられています。
まして、天誅組だとか北山一揆などは名前も忘れられかけています。
地元の英雄のはずの「多蛾丸」がどんな人で「坂上田村麻呂」が攻めてきた時はどんなだったかなども全く伝承されていません。
郷土史研究家は知っているのかもしれませんが、熊野人一般は私を含め知らない話です。
こんなのですから、始皇帝時代のことなど、田舎ではわかるはずないでっすね。
でも、中国の方でも「波田須」は徐福に縁があるということになっているとか…
なっているのか、させたのか???
させたとしたら大した物です。
ただ…
波田須の「天台烏薬」は不老長寿の薬草でないことだけははっきりしています。
徐福の探していた「天台烏薬」と今言う所の「天台烏薬」が同じなのかどうかも解りません。
私も「天台烏薬」でも植えましょうかね。
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