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LUZの熊野古道案内

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2005年 09月 03日

熊野の旅 熊野の町、村の変遷 合併

 今でこそここは『熊野市』を名乗っていますが、当然のように昔は町と村ばかりでした。昭和の大合併で全国に市が一杯生まれた時に法律の制限人口三万をぎりぎりで越えて市になったのです。
 紀伊半島の南は古くから暖かいところとされ、それを起源とする『牟婁』(むろ)の地と呼ばれていました。近代になって県市郡制になったときにも、地域は和歌山県と三重県に分断されましたが地域名は和歌山県に東牟婁郡・西牟婁郡、三重県に北牟婁郡・南牟婁郡と東西南北揃った形で『牟婁』が残りました。
 その中の南牟婁郡が大合併に動きを見せましたが、あまりにも広いと言うこと、交通の便が悪すぎると言うこと、地域エゴなどで成功せず、荒坂村(あらさか)・飛鳥村(あすか)・新鹿村(あたしか)・五郷村(いさと)・神川村(かみかわ)・泊村(とまり)・有井村(ありい)・木本町(きのもと)の8町村が合併して『熊野市』を誕生させたのです。
 合併したのは私が子供のときですが、合併を祝う歌も作られ、旗行列をして市内各地で祝ったものです。
 出だしを忘れましたが
・・・・ここ紀の国の南の 8つ町村全あわせ 
  今新しく生まれたる
  熊野 熊野市 栄えあれ
 などというものでした。昭和の大合併の時にはこうした祝賀行事は全国で見られたものです。それにひきかえ平成の大合併では住民参加の祝賀行事などほとんど無いようですね。『合併したところで・・・』という現実が住民に分かっているからでしょうね。
 南牟婁郡大合併がならなかったので郡としての名前は残りました。そちらの方でも、村々が合併して紀和町・紀宝町・御浜町が出来、財政豊かな鵜殿は単独で村のままで残りました。
 平成の押し付け合併の時も当然のように熊野市、南牟婁郡4自治体の大合併が議題になりました。しかし、早々と頓挫、ばらばらになった協議会が鵜殿+紀宝=新町誕生になり、残りの紀和+御浜+熊野になるはずが、表面的には市庁舎の位置問題が決着を見ないという理由で不成立になりました。その結果熊野+紀和=熊野市という数式が成立してしまいました。
 貧乏・過疎の熊野市と東海有数の過疎の町紀和町が合併して何かあるのでしょうかね。
 熊野市から紀和町へは国道311号線。昔の風伝越え本宮道を行くわけです。元々、人口は二万しか居なくて東海地区でNo.1を誇った熊野市がここを吸収しても???人口密度では一番暮らしよい市が出来そうです。老人天国ですね。老齢者比率30%は越えているでしょうね。
 このように、熊野の町村は昭和、平成と名前を変えてきましたが、昭和30年代が終わると共に過疎の進行が加速して人口の1/3が減りました。紀和のごときは銅山の閉鎖と共に人口は1/3に減ってしまいました。
 世界遺産という意味では破戒からは守られるでしょうね。しかし、住む人も居なくなってきているところに観光施設を作って観光客を誘致しよう・・と言う動きは相変わらずありますね。そして、熊野古道を訪ねてくる人のかなりの部分が、そうした作られた古道や金太郎飴の施設を喜ぶ向きがあるのが残念です。そうした人のほうが声が大きいのですね。
 荒れたままの古道でも古のままの石段を足場を探しながら歩き、自然に抱かれた熊野の地と古人の熊野詣の苦労を実感することをよしとする人は黙ってうなずくだけです。
 熊野は観光地にあらず・・・
 迎えてくれるのは『神々と自然』です。
 それを求める人だけが良さを実感できると思います。

 熊野古道・熊野市内・松本峠・・・比較的手の加えられていない古道です。
カメラは イコフレックス2aテッサー75mm

by je2luz | 2005-09-03 14:38 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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