今は何でもお役所頼りですが、昔はそれほどお役所が頼りにならなかったので色んなことを住民の力でやってきました。
国や自治体に金がなかったと言うこともありますが、村人も身の回りのことは自分たちでやると言うのが当たり前だと思っていたからです。
今では子供の給食費からPTA会費まで経済力があっても払わない親がいるそうですが、昔は、学校を建てるとか直すとか言うときには村中で寄付しました。
子供が居るとか居ないとかではなく、身の丈に応じて寄付した物です。
道に関しても、集落ごとにその中の道は皆で管理していました。
今のように立派な、自動車が走る舗装道路ではなく、「リアカーが通れるなら立派な物…」と言う道で「道路」なんて呼べる物は少なかったですけどね。
あぜ道や山道で、法律的には国の管理する「赤道・あかみち」と言うのはありましたが、これは勝手に潰してはいけない生活道路として国が認めたと言うだけで「国道」なんかとは違います。
事実上制約はあるけどメリットはないという形でした。
こうした時代…
昭和30年代くらいまででしょうか?
集落の道の管理から拡幅まで集落の出合いで行われ、「ちゃのこのかしん」…「茶の刻のお菓子」…「おやつ」などは「だんなし」…「旦那衆」…「お金持ち」が出していました。
それが「身の丈に応じた」と言うことですね。
国道でも、工夫さんだけでは間に合わないので、集落の人や学校で穴ぼこ埋めなどしました。
この辺で信者さんが増えていた「天理教」には「ひのきしん」なんてのがあって、今で言う「ボランティア活動」をやっていました。
「ひのきしん」=「日の寄進」なのでしょうね。
その「ひのきしん」などでも道路の補修がされていましたね。
今のボランティアのゴミ拾いではなく、鋤簾・鶴嘴からモッコまで使った補修工事をしていましたね。
田舎の教会だと信者さんは肉体労働に耐えられる人がほとんどでしたからね。
中学の時には学校で通学路の整備に生徒も出ました。
砂利道・地道で自転車通学がほぼ全員でしたから自分たちの身の回りのことでした。
このように、道と言う物がものすごく身近で大切にされた時代が長かったのですが、いつの時代からか、側溝が詰まったからなどということまでお役所に命じるようになってしまいました。
家の前の道を掃除して水を打つ…何てこともなくなりましたね。
その水がかかって、「そこへなおれ!手打ちにいたす!」などということも、「すみません!どうぞ奥でお乾かしください…」なんて恋が芽生えるなんてのもありませんね。
かく言う私も、家の前の国道の掃除はしませんね。
これから暑いシーズンですから、ホースで水でもまきましょうか?
古道歩きの若い女の子に狙いを定めて…
「すみません!中で…」なんてね。