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LUZの熊野古道案内

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2012年 07月 01日

熊野の旅 私の知らない矢の川道

 私は紀勢線全通前の「矢の川越え」を知っている一人です。
 私が高校受験で東京に出たときは国鉄バスで2時間40分かけて矢の川峠越えをしました。
 尾鷲から蒸気機関車の引っ張る汽車で相可口(多気)まで紀勢東線、その先は参宮線、関西本線、東海道線と言った旅でした。
 この受験で落ちたので地元の木本高校に進学し、大学受験の時には紀勢本線で乗り換え無しに上京しました。
 まあ、楽に上京したのにやっぱり落ちて浪人し、三度目の正直で付属高校を落とされた大学に入ったものです。
 
 この国鉄バスでの矢の川越えですら、覚えていて…乗ったことのある人はもう少ないです。
 その頃は尾鷲まででも2時間40分掛かるのですし、全国でも一番険しいのではないかと言われる山道越えですから、よほど用事が無い限り乗ろうなんて思う人は少なかったのです。

 この「矢の川越え」は日本で最初にジーゼルエンジンバスが投入されました。
 高速回転は苦手でもトルクがあるジーゼルがこうした道には適しているのですが、まだ実用化が完全になっていなかったのです。
 ここと長野県の路線で実験をかねて投入されたのです。
 私の子供のとき、三重交通バスは「木炭エンジン」を積んでいました。
 これこそ覚えている人は少ないでしょうけど、大きなタンクをしょったもので名前の通り「木炭」を使って走りました。
 蒸気機関ではなく、木炭を不完全燃焼させ、発生する一酸化炭素ガスを使ってガソリンエンジンを回すものです。
 後のタクシーなどが使ったプロパンガスエンジンのものすごく馬力の無いバージョンです。
 それでも、これは「再生可能エネルギー」を使ったものなのです。
 この三重交通バスは飛鳥町小坂の「へり道」と呼ばれる小さな坂道すら登れなくて、途中で止まるとバックして惰力をつけたり、乗客が降りてお尻を押したりしていました。
 その時代でも、ジーゼルエンジンの国鉄バスが全く問題なく走っていましたから、ジーゼルの威力はすごかったのですね。

 今でこそ、鉄道も道路も利用者の少ないローカル路線ですが、かつては紀伊半島をぐるりと回る幹線が切れた区間で、「国鉄バス」は「国鉄紀南線」と言う重要な連絡バスだったのです。

 ところで、この矢の川峠越えの新道が出来てバスが走るまで…
 「念仏坂」なんてまで呼ばれる所のあるような難所の急斜面…
 どうしていたとお思いですか?

 なんと、今で言う「ケーブルカー」「空中ケーブル」で人を輸送したのです。
 と言っても、二人乗りの小さな箱が取り付けられたもので、かなり怖いものだったようです。
 地元では「索道」とか「野猿・やえん」と呼ばれました。
 この索道は「紀伊自動車」と言う会社が昭和2年から10年営業したもので、日本最初の旅客用索道とも言われています。
 と言うことで、私の生まれたときには「省営バス」が矢の川を越えていましたし、物心付いたときには「国鉄バス」になっていました。
 それでも、お年よりは「省営バス」と呼んでいましたね。
 決して古いのではなく、私が東京に出た頃でも、東京のお年よりは山手線などを「省線」と呼んでいましたよ。
 余談ですが…東武東上線などは「おわい電車」なんていわれましたね。

 と、言うことで…
 この索道による「矢の川道」はさすがに私は知りません。
 下北山に通じる道の一部にもあったやに聞きます。
 紀州鉱山の索道は鉱石用でしたが、内緒で人も乗ったようで、おちて死んだ人もいたと聞きますね。
 人間、なるべく楽が出来るようにがんばるようです。
 でも、ちいちゃな屋根も無い箱に乗って空中を行くなんて高所恐怖症の人には不可能な乗り物ですね。
 楽をとるか、恐怖から逃げるか…
 どっちにします? 
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by je2luz | 2012-07-01 11:37 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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