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LUZの熊野古道案内

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2012年 02月 25日

熊野の旅 昔の話 鉄道

 紀伊半島は地形的に複雑で険しいので交通網の整備が大変だったようです。
 険しくて簡単に来れないから、「熊野信仰」なんてのがこんな南国の海の傍に出来たのでしょう。
 簡単に行けたら、能勢の観音・紀三井寺なんて程度になっちゃったでしょう。
 極楽浄土なら「宇治の平等院」だってありますからね。

 何しろ鉄道がぐるっと一周したのが、戦後、昭和36年なんてところです。
 四国中村線、三陸なども手こずった訳ですが、大阪からも名古屋からもすぐだし、第一期の国立公園で「吉野熊野国立公園」が指定された観光地だし…熊野詣での聖地だし…材木の一大産出地だし…銅山はあるし…
 無いのは平野と人口くらいだったのに…

 最初は軽便鉄道などで地元資本が一生懸命作ったようです。
 だから色んな鉄道会社の名前があったようです。
 当時の小さなトンネルが残されているところもあります。
 確か、今はショッピングセンターになった巴川製紙の勝浦寄りのあたりにもあったように思います。
 そうした細切れの路線を「鉄道省」が接収?して整備していったのが、紀勢西線の歴史のようです。
 我が家の本家を探せばその時代の写真も出てくると思うのですが、私の手元にあるのはお袋がお嫁に来るときに持ってきた写真のネガとか親父が撮ったらしき写真のネガとか、ほんの一部です。
 昭和10年代前半とかの古い物で、セルロイドベースのフィルムです。
 取り立てて防湿に心がけていた訳ではないので結構傷んでいます。
 それでも、白黒写真だからスキャナーでちゃんと取り込める物もあります。
d0045383_10122616.jpg

 これはお袋が娘時代、原判は6×9・ブローニー判です。
 半分の大きさの窓、三等車、鉄道省…という物です。
 今の映画のロケ写真ばりにきれいに残されています。
 嫁に来る前…昭和10年から12年くらいまででしょう。
 行き先が『大阪』なので阪和鉄道や紀勢西線ではないのかなと思いますが、当時の列車の行き先駅名が分りません。
 お袋の女学校とか娘時代の行動範囲からするとせいぜい和歌山・堺・大阪・岡山までかと思います。

 車両区分が『十ハ』となっていて、「ハ」は戦後と同じ「三等車」ですが、前の「十」は少し違うようです。
 ハイカラな服を着て腕時計もしていますね。
 お嬢様だったようです。
 それに、戦前でも太平洋戦争中ではないですからね。

 この時代、新宮や木本はうんと元気だったのです。
 結構、「旦那衆」も居たようですからね。
 鉄道が全通し、道路もつながって…そして来年とかに高速道路もつながって…
 そうして便利になると共にどんどん落ち込んだのが田舎の中核都市の新宮や木本です。
 要するにストローをつっこんで吸い上げる役目を果たしたのが交通網ですから…

 汽車が遅く、のんびりした時代の方が、「旅」の楽しみは大きかったのです。
 ビュワーン…なんてすぐに着いちゃうと、時間が節約され便利ですが。「遠くに出かける」なんてのや「旅情」なんて無いですね。
 「時刻表」なんてのがベストセラーではなくなったし…
 「浴衣に下駄履き」なんて、観光地の定番光景もほとんど消えましたからね。
 
 
熊野市周辺地図です
 

by je2luz | 2012-02-25 10:40 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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