昨年の12号台風関連水害で市内での被害は各方面で発生しました。
山間部では当然のように農地と農業用水路に大きな被害が発生しました。
このあたりの農業用水は大又川などの本川やその支流の谷川に堰を作って水を引き込んでいます。
あふれることの無い川があふれたくらいですから、その堰や水路の入り口付近が無事で済むはずはありません。
堰の消し飛んだ所、入り口付近が石ころや岩で埋まってしまった所、途中で土砂崩れがあって破壊された所…様々です。
こうした水路はその受益者で先祖代々営々と管理されてきました。
大きな工事は役所にやって貰ったりしていましたが、昔はその補修管理、復旧作業などは集落の出合いで行ったものです。
春先の「溝の掃除」「水漏れ箇所の補修」に始まって、苗代作りまでにはきちんと整備したものです。
川の部分は台風で壊れることもありましたが、台風の時期が早いと田んぼにはまだ水が要りますから水が引ききらないうちに筵や杉の葉っぱなどを使って仮に補修して水を連れてきたものです。
私が飛鳥で暮らしたのは子供の頃ですし、そうした作業にかり出されることは無かったですが、その頃には残っていた「若い衆」がパンツ一丁で半ば命がけのような作業をしたのです。
その頃の田舎の集落の力はすごかったですね。
段々「若い衆」が居なくなり…役所の面倒見も良くなり…
せいぜいセメントの現物支給があるだけで自力更生していた作業も、セメントを貰っても若い衆は居なくなるし出来なくなってきました。
昔ならみんながよってたかって片付けた程度のゴロ石の除去も今では出来なくなって市の災害復旧を待たなくてはならなくなっています。
平均年齢が70歳を越すお百姓さん集団では無理な話ですね。
これが田舎の現実なのですが、都会の人には分らないと思います。
農業用水にはきれいな水がいつも流れていて…
道端には草が生え花が咲いている…
でも、これは集落の力があってこそ維持されてきた里の風景なのです。
河原の竹藪一つでも、竹を生活に使わなくなったし人出が入らなくなったので荒れ放題、まともな河原竹も育たなくなっているのです。
全国に人はまだ居るけど、集落としての力が無くなって生活道路や農業用施設の維持も難しくなってきた「限界集落」が増えているのです。
テレビなどの「限界集落報道」は少し情緒的な甘いものに見えます。
そこから送り出した人材で日本国の復興と繁栄が築かれたのですけどねえ…
今のマスコミ人の親とかおじいちゃんはどこの人かな?
昔の映画のように「ルーツ」を探せば「限界集落」とその予備軍にたどり着くかも知れませんよ。
今では
「ああ 吾が はらから いかにおえあす…」
なんて歌も歌われませんが、故郷には廃屋しか残らなくなってきたのです。
熊野市周辺地図です