LUZの熊野古道案内

je2luz.exblog.jp
ブログトップ
2011年 11月 22日

熊野の旅 江戸時代の飛鳥の行事 後半

 さて、江戸時代の大又村坪田家の年中行事も秋以降になります。

 8月 1日は「八朔の祝賀」てえのがあったようです。
 これは、「たのみの朔日」「秋の祝」などと言って餅の贈答があったようです。その餅も「一重」と書いてあるのですから、私達がお礼に行く時同様、重箱で持って行ったようです。
 8日から彼岸に入ったようです。もちろん旧暦ですけどね。
 11日は彼岸の中日…当然のように先祖の供養を行います。そして、「ここでも「餅」を搗いて配っています。このときは本家の方から配ったようですが、村内からは「牡丹餅」「松茸」などがお礼に届いたようです。
 「松茸」は旬の物ですが、今のような超・高級品では無かったはずです。
 14日は「田の神の祭り」
 15にとは日待と言って村中休みだったそうです。

 9月は稲刈りの季節で農繁期です。
 坪田家では文久三年には8月27日から稲を刈ったんだそうです。旧暦ですから今なら9月の中頃・・・当時としては早かったでしょう。
 この時代でも9月9日の「重陽の節句」とか「氏神様へのお参り」にはお休みになって餅や赤飯で祝い節句の祝儀の贈答があったと記されています。

 十月は取り入れが終わりそのお礼や祝いの行事が多かったようです。
 2日には「玄猪の御祝」と言って夜にはかない一同で「善哉餅」で祝ったそうです。
 これって、「私達の頃の「猪子」でしょうかね?
 「いのこ餅」は塩味の粒あんを餅の外に塗りつけた不思議な物です。
 そして3日にはその餅を村の衆が持ってきたそうです。

 十一月になると、1日に「飛鳥神社の祭り」があったようです。
 この祭り、新暦になってからの私が子供の頃には12月1日になっていました。季節的には旧暦の11月1日頃と同じで、うんと寒くなり完全に稲刈りや後片付けが終わっていたのです。
 今ではこれが11月3日の文化に日になっています。
 稲の刈り入れが早くなりその頃にはもう農閑期に入りますからね。そして、日にち制では勤め人がお祭りに出られませんし、勤め人が居なかったら、神楽もなにも出来ませんからね。
 江戸時代のこの祭、二日の日に「山車」が練り歩いた…らしいのですが、私が子供の頃には「山車」なんてのはありませんでしたね。
 今のような道路がある訳では無いですから、たいそうなものでは無かったはずですけどね。
 そして、「年貢の納め時」がこの時期だったようです。
 当たり前ですよね。元々年貢は米だったのですし、今と違いお役所の年度も暦通りだったのですからね。

 十二月は一番最初に書いたように、もう正月準備の月なんです。

 こう書いてみると、何とも「餅」の好きな村ですね。
 年がら年中「餅」なんです。
 坪田家ほどの大農は分るにしても、村人が年中餅を搗いたり口にしたり…
 飢饉でも無い限り「紀州藩奥熊野大又村」の生活は意外と楽だったのかも知れませんね。
 それと、「お祭り」の時は庶民でも「米」を食べたりしても良いという特例があったりしましたから、政が多い方が何かと村人にも良かったのでしょう。
 いまでは、特例なんかはないし。行事の面倒くささが先に立ったりしますね。

 不思議なことに「寿司」が熊野市史の中には取り上げられていません。
 それと、「餅ほり」もありませんね。
 私が子供の頃の経験からすると、「寿司」と「餅放り」が大好きな土地柄なんですがねえ…
 残念ながら、この「晴雨日記」をわざわざ調べるほどの興味も無いし、例え見せて貰ってもミミズが這い回った続け字では読めません。せめて楷書にしてくれないと…
 寺子屋の子供が書いた絵日記でもあれば…
 その当時の寺子屋には夏休みの宿題なんて無かったでしょうしね。
 多分、寺子屋は「大義院」にはあったと思います。
d0045383_10234861.jpg


 
熊野市周辺地図です
 

by je2luz | 2011-11-22 10:24 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : https://je2luz.exblog.jp/tb/14985607
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]


<< 熊野の旅 江戸時代 観光旅行      熊野の旅 お盆・正月以外には…... >>