人気ブログランキング |

LUZの熊野古道案内

je2luz.exblog.jp
ブログトップ
2011年 11月 19日

熊野の旅 熊野の正月 やっぱりやってたんだ

 熊野ではこれと言った家庭でやる「正月行事」が無いように思ったのですが、江戸時代の大又村坪田家では色々あったようです。
 この「坪田家」は大又、今の坪田平にあったものと思われますが、この辺としては大きな百姓で庄屋の家系でもあったようです。
 田舎の「大きな百姓」というと「広いお屋敷」「大きな家」「立派な倉」なんて想像するでしょうが、この辺の山間部は平地などほとんど無いのですから、見渡す限り自分田んぼで小作人を使っていると言ってもたかが知れた面積しかありません。
 それに、平らな土地が貴重ですから、屋敷も山を彫り込んで作ったもので広くは無いです。
 これは小阪・佐渡などの旧家の屋敷も同様です。
 平野のある農村と山間部の違いはこんな所にも出ています。
 「坪田家」の何代目なのか知りませんが、熊野市の二代目市長、8期32年の長期政権を担った坪田誠さんはここの当主でした。

 こんな旧家、それも江戸時代、文久三年ともなると正月も大変だったようです。
 ここに残された「晴雨日記」という記録がこの辺の民俗資料としては貴重なものらしいです。
 それによると
 正月は12月13日から始まるんだそうで、煤払い(大掃除)、飾り迎えをして餅米を挽くとありますが、餅米の籾をすったのでしょう。
 15日の晩にはもうしめ縄を張ったんだそうです。
 20日頃からお歳暮を配り、
28日にはお鏡が飾られました。 28日に餅をつくのは私が子供の頃もそうでしたね。
 29日になると「苦になる」と嫌いました。 まあ、ずるずる遅くなるのを戒めたのでしょう。
 30日に門松としめ縄を飾って「大正月」を迎えたそうです。

 元旦、家内の者で酒を酌み交わすのが通例だったそうですが、坪田家には親戚や近隣の百姓が白酒を持参で年礼に来たようです。
 この習慣は昭和の時代でも、「正月の礼」として残っていました。
 「白酒」ではなく、「鏡餅」と「お米」を持って行きました。
 「分家から本家」「嫁の里」「檀家寺」などですが、私が子供の時には「学校の校長」なんてのも入っていました。
 二日 この日は「火の炊き始め」とか「仕事始め」の儀式があったようです。そして、家内で酒を飲む…
 三日 又々、朝は家内で酒を飲み雑煮を食べ・・・その後で「飛鳥神社」へ初詣…そして、大又のお寺「大義院に正月の礼に行くんだそうです。
 四日 「山始めの日」で山に入って薪を切って一年の安全を祈願したそうです。
 五日 近くの村のお寺がお礼に回ってきたとか…
 七日 「七日正月」という言葉は昭和にものこっていましたが、行事は時に無かったです。でも、江戸時代には近隣の村からお礼に来たんだそうです。
 そして、「山の神」の日です。私が育った飛鳥村大字小阪字平の山の神は今でも正月7日に山の神を行っています。
 十一日 「帳綴のお祝い」なんてありますが、仕事始めなんでしょうか?雑煮を供えたとか…
 十五日 「小正月」…この名前も昭和まで残っていました。 家内中で「小豆粥」で祝うんだそうです。
 十六日 「先祖御墓参り」と言うことで、仏開きで仏壇に雑煮を供えるんだそうです。仏様は正月半月も断食させられたようです。
 この日には小庄屋・・・今の区長?がまあ、戸籍調べみたいな事をして大庄屋に届けたんだそうです。
 二十日 ようやく「正月納め」と言うことで家内一同「小豆飯」…赤飯で祝ったようです。

 なんと、暮れの15日から言うと一ヶ月以上!
 正月から一年が始まるのでは無く、正月のために一年がある?
 当主は采配を振っていれば良いですが、裏方は大変ですね。
 下男下女が居なくてはやれることじゃないです。

 と言うことで、熊野でも旧家ではこんなに一杯の正月行事をやっていたのだそうです。
 昭和の坪田家当主、坪田市長は長く借家住まいをして質素にしていましたし、大又の家には住みませんでしたからこんな行事とは縁が無かったようです。
 まあ、お酒をこよなく愛し、正月だけで無く365日腹一杯飲んでおられました。
 少なくとも、市長在職32年間は飲み続けたと思いますが、長生きされましたね。
d0045383_9582222.jpg


by je2luz | 2011-11-19 09:58 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : https://je2luz.exblog.jp/tb/14968458
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]


<< 熊野の旅 昔のお盆は・・・坪田家      熊野の旅 そうだったのか… 庚申様 >>