LUZの熊野古道案内

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2011年 05月 24日

熊野の旅 紀和 入鹿鉱山

 今は熊野市内になっていますが、合併前の南牟婁郡紀和町、さらにその前には南牟婁郡入鹿村と呼ばれたあたりには、平安時代にも銅を採ったと言われる「入鹿鉱山」があります。
 最後の方は「石原産業紀州鉱業所」とか言われるものだったと思いますが、今は閉山されています。
 こうした鉱山は戦前、戦時中には大増産命令が下り、手当たり次第鉱夫を刈り集めたのです。
 この「入鹿鉱山」では英国軍の捕虜が送り込まれ、終戦までに多くの儀際者が出ています。
 この英国軍の捕虜は戦後「いるかボーイズ」として、この地を訪れ和解して新聞紙上も賑わせたものです。
 しかし、この兵士たちも老齢化し、おととしくらいに訪れたのが捕虜になった人たちご本人の訪日の最後になったかと思います。

 この有名な「いるかボーイズ」の他にも、日本各地から集まった流れ者的な労務者も多かったのです。
 時代劇の「石見銀山」「佐渡の金山」のように「無宿者」「刺青者」が送り込まれる時代ではなかったはずですが、それに近いことが起きていたようです。
 各地でも見られたように、この鉱山にも朝鮮半島から強制徴用の労働者が送り込まれました。
 建て前は「募集に応募した鉱夫」と言うことみたいですが、実態は家族すら日本に送られた事を知らなかった人も居たようです。
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 この写真は紀和町の中心部、板屋のコミュニティセンターの前の空き地で撮ったものです。
 記念碑のようなものの前に置かれた字を書いた川原石・・・これは朝鮮半島から送り込まれてこの地で亡くなった方の慰霊碑なのです。
 川原石には名前が書かれています。
 おそらく遺族の方や仲間の方が訪れて供養した時のものだと思います。
 そして川原石の数は犠牲者の一部に過ぎないのだろうと思います。

 こうしたことは、日本の負の歴史、地元の恥、的に扱われるので、あまり報道もされません。
 こうした記事の書き方をすると、右寄りの人からは「強制徴用なんてなかった」、「自主的に応募してきたもので賃金も支払った」、「当時は朝鮮半島も日本であり日本国民として来たのだ」と言われそうです。
 そうした歴史観が結構のさばるのが世界をギクシャクさせる一つの要素なのでしょうね。
 日本だけではなく世界中でね。

 世界中には神様や仏様が居られるはずだし、えらい聖職者の方々も居られ、立派な寺院や神殿を今でも建立されているようです。
 でも、太古の時代より人心はすさみちっとも現世が良くなっていないとか…
 宗教のためにイザコザや戦争が絶えない…
 と言うより…
 今の世界の戦争の元がほとんど宗教とは…
 『宗教団体』って余分なものなのかもしれませんね。


熊野市周辺地図です
 

by je2luz | 2011-05-24 09:49 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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