LUZの熊野古道案内

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2010年 02月 06日

熊野の旅 400年前、日本は狭かった?

 先日、秀吉が軍船の建造を新鹿で始めたことを書きましたが、政権交代のあとの家康はこの辺に何も言ってきていないのかと思って、パラパラと年表をめくったら…
 ありました。
 今度は軍船ではなく「石舟」とありますから、もう少し安物の船や台船みたいな物でしょうが、江戸城普請用に各地に建造を命じています。
 新宮の川筋で100隻、大泊、新鹿で30隻、三木、賀田で30隻、尾鷲で50席など、この辺だけでもかなりの数です。
 これが慶長9年(1604)、家康が将軍職を秀忠に譲って駿府に隠居する前の年です。
 
 古代でもそうですが、この日本列島は蝦夷地を除いて随分狭かったようです。
 まだまだ農地や生産高の把握をする「検地」は完全に出来ていないとはいえ、津々浦々までの生産見込みがそこそこ把握され、それに応じて、年貢や上納品などが中央政府で把握できていた感じです。

 次の年には、仙台・松島の円福寺の方丈再建とやらで、用材を熊野から運んだなんてのまであります。
 海路運べば、潮の流れに助けられるので意外と早いのでしょうけど、日本中、山又山の時代でも、良い材木の産地は限られていたのでしょうかねえ…
 インターネットなど無くとも、新宮奥には巨木がある、大工の腕の良いのが居る…などと言う情報は把握されていたようで、工事も紀州の棟梁がやったそうです。
 意外と今の県庁や中央省庁のほうが把握できていないのかもしれません。

 かくかように、古くから、船つくりや寺社普請に発注があった「紀州材」「熊野材」も昭和の御世を最後に日本国から見放されたようです。
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熊野市周辺地図です


by je2luz | 2010-02-06 13:19 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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