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LUZの熊野古道案内

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2005年 06月 24日

熊野古道の周辺 熊野川総合開発 1

 『熊野川総合開発』などと言うと格好よいものに聞こえますが、紀伊半島から清流と海岸を奪う暴挙だったのです。
 戦後の復興期、日本の電力事情は非常に厳しいものでした。一般住宅でも停電が毎日のように続いていました。工場ではまだボイラーに頼る状態でしたから、国策として『水力発電所』を日本中に作る計画が持ち上がりました。
 水量豊富、急流、周囲の山が高く頑丈、人口が少ない・・・走した条件に適したところとして紀伊半島も白羽の矢が立ちました。熊野川水系の北山川・大又側・十津川全てにダムが作られてゆきました。吉野白川・熊野神川などの集落が水没して行きました。
 そもそもこの計画はアメリカ合衆国におけるテネシー川総合計画の成功をモデルにしていました。
 電力の確保と共に巨大土木事業による景気刺激、補償による巨費の投入で巻き起こる民間の建設、消費ブームなどを期待したものです。
 世界銀行の借款などを含め巨額が投じられてゆきました。この成功が『景気対策』=『公共事業』の発想と図式を作っていった一員です。
 この巨額の移転補償を目当てに、ダムの建設予定地を渡り歩いた人たちが居ます。集落の外れや山あいの人の住まない安い土地を買い、バラックを立て、池を作り鯉を放し・・・まさに全国を渡り歩いていたのです。ダム建設についてまわる建設労務者より一足先に動くわけです。
 こうして移り住んできたグループの一団が写真に見える谷あいの集落です。昭和37年ごろの熊野市五郷町ものです。この集落はダム建設に寄生する集団の存在が社会問題になってきた時期になり、それ以前のように『銭儲け』にはならず、『ダム建設が決まり、水没予定地であることを承知で購入、または借地し、建物や養殖池などを建設したものは補償の対象にならない』と、言う当たり前のことが当たり前になり、追い出されることになりました。
 子供をつれ転校させ点々と移住していた人たちはその後どうしたのでしょうか?あれから40年余りです。10歳の子でも50歳を越えていますね。高度成長にうまく乗れていれば良いのですが・・・
 自然に対する影響は次に書きます。



 カメラはニコンF ニッコール105mm 当時は花形現役機種でした。



by je2luz | 2005-06-24 12:32 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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