LUZの熊野古道案内

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2009年 12月 16日

熊野の旅 歩くと言うこと 宗教

 昨日は歩かなくなって、熊野古道が寂れたと同時に、「熊野詣」も廃れていったことを書きました。
 『歩く』と言うことは宗教的にはずいぶん大きな要素があるようです。
 日本でも、「四国八十八箇所」「西国三十三箇所」などが長い道のりを歩いて回る祈りの旅として受け継がれてきました。
 「金毘羅参り」や「熊野詣」も同じようなものでしょう。
 これは何も日本の話ではなく。イスラムの世界では「メッカ巡礼」があるし、キリスト教でもスペインの「サンティアゴに向かう巡礼」、ヒンズー教では「ガンジスへの巡礼」などが有名ですね。
 チベットなどでは五体投地のようなものすごく体力の居る方法で百キロも二百キロも進むようなものまであります。
 日本人の好きな「禅」でも、一般には「座禅」を修行として言いますが、「動禅」もあって、歩くことによって無心になると言う方法もあるのだとか…
 人間、何かを考えたりし始めるとうろうろ歩き回ったりするものです。
 「熊みたいに歩き回るな!」と、よく叱られましたが、無意識に歩いてしまうこともあるのです。

 このように、「歩く」と言う行為は世界中で「考える」「無になる」などいろんな面で行われ、宗教を問わず意義のある行為の一つになっていますね。
 長い道のりを、毎日毎日ひたすら歩くことによって、最初は雑念が一杯だった頭の中もだんだんそんなものが薄れて、ただ、目的地…神や仏の下へたどり着きたい一念だけが残ってくるのでしょう。
 庶民にとってはかろうじて食いつなぐだけの路銀で旅立ってきたわけですから大変な旅のはずですからね。
 楽に移動して、夜になったら温泉に入り、ご当地グルメに舌鼓・・・なんて、大名やサルタンのような物見遊山の旅行では、到底たどり着けない境地だと思います。
 
 「熊野信仰」と言うやつは、取り立ててどの宗派の物と言う訳でもないですね。
 江戸時代には「熊野比丘尼」が売って回った「午王宝印」などと言うお札が流行ったそうで、遊女の「誓文」にまで使われたそうです。
 まあ、江戸でも簡単に買えるお札でも、「ほんまもん」を手に入れる旅もありがたかったでしょう。
 東京で買えるグッチでも本店で買ったものは自慢の種…といってはいけないかもしれませんが、江戸っ子なら自慢したでしょうね。
 「なに様」にも属さないと言うことは、「どこ様」も力を入れない、勧めない…ということにもなりますね。
 「金剛峰寺」「延暦寺」「永平寺」「久遠時」「東本願寺」「西本願寺」などの本山は宗派の信者だけでも膨大な数です。そして、その末寺がお参りすることを勧めます。

 日本では「神道」は明治以来、国が強力に推し進めましたが、民間では「仏教」にとても勝ち目の無いものになっています。
 死後の世界は約束してくれそうにないし、誰にでもある死を忌み嫌うし…
 そのあたりも、「熊野詣」がありがたみをなくした一因かも知れませんね。
 黙って参ってくるには「神社」も良いものですが、神社はどこかに。『来るな!』と言う雰囲気もありますね。
 「注連縄の内側には人間は入っちゃあいけない…」と言う感じですね。
 神官の持つ雰囲気も「神々しい」かもしれませんが、「親しみにくい」ところがあります。
 個人個人はそんなものではないのですけどねえ…

 歩かなくなった現代人…
 「熊野古道」も細切れ…
 歩くことで得られていたはずの「熊野のありがたさ」はもう戻る事は無いでしょうね。
 私も歩きたくは無いですし…
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熊野市周辺地図です


by je2luz | 2009-12-16 11:24 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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