LUZの熊野古道案内

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2009年 12月 08日

熊野の旅 かつては半農半漁だった…

 全国の海岸線には「半農半漁」と言われる集落がたくさんあったものです。
 私が子供の頃の社会の教科書にはこの言葉があったように思います。
 ここの『七里御浜』に沿った集落もそんなところが多かったようです。
 今のように大きなエンジンの漁船ではなく、「和船」を浜から人力で押し出して漁に出た時代は、漁獲もたいしたことはない代わり、集落総出で船を出して副業にする漁業が成り立っていたのです。
 ことに、こうした砂利浜のあるところなどは、地形上、そこそこの農地はあるし、浜で船を下ろしたり上げたりは大変ですが、地引網が引けたから「半農半漁」の集落が出来ていったのでしょう。
 近代になる前は「磯」より「浜」の方が船をつけよいので、漁村は「浜」にあったのです。
 今では岸壁が出来て、「浜」のない漁港ばかりですが、魚に関しては『浜値』などという風に「浜」を使いますね。

 このように小さな漁業集団が一杯あり、それぞれが木造の和船を数艘ずつ持っていて、普段は浜に上げていました。
 地引シーズンが終わったり、台風が近づくと船を松原まで引き上げて流されないようにしてありました。
 そうした和船の姿を以前にもここに載せたことがありますが、今回、例のフェリー事故の「ありあけ」を撮りに行った御浜町三軒家の松林でもっと朽ち果てた船を見つけました。
 通りかかっても気が付かない人も多いだろうと言うまで形がなくなって土に返ってしまっています。
 この船の出入り口になっていたはずの場所には船はありません。おそらく半農半漁の「魚」の方がなくなったのでしょうね。
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 昭和が終わって、平成になってもう20年です。昭和の中ごろまで普通だったこうした田舎の生活様式や風景が変わってしまって当たり前なのでしょうね。
 唱歌に歌われていた
  「松原遠く 消ゆるところ 白帆の影が 浮かぶ・・・」
  「吾は海の子 白波の・・・」
 などという情景はどこにも見えないし、老人以外には理解できないものになってしまったようです。

 熊野市側の有馬松原の遊歩道にも何艘かのこうした廃船が見られます。そして、南牟婁郡側にもあります。
 寂しい光景ですが、木で作られた和船はこうして自然に帰ってゆきます。
 あと十年もすれば、ここに船があったこともわからなくなるのでしょうね。
 そして、ここの住民からも自分たちの先々代あたりには船を操り網を引く技術があったことの記憶も消えてゆくのでしょう。
 戦争を抜きにすれば、どの時代に生きた人が幸せなのか良くわかりませんね。
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 カメラはソニーA350+シグマ10-20ズーム

熊野市周辺地図です
 

by je2luz | 2009-12-08 11:32 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
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