「ハイカラ」と言っても施設の名前ではありません。
ここの名前はハイカラよりはお役所の臭いがしそうな和製英語の響です。
明治に建てられた「旧奥川邸」は、明治・大正・昭和と住み続ける間に、その時代の先端を行くものが取り入れられてきたようです。
この写真では、「縁側」にいすが置かれています。
でも、この家ならこの季節にこれをおくことはなかったと思います。
この季節はまだ『籐の椅子』のはずです。
そして、丁度今頃、「そろそろ片付けようか・・・」と言い出す頃なのです。
このクラスの家になると、障子も夏には「紙障子」ではなく「簾の障子」にかえられる物だったのです。
暑い地方ですし、町屋は風通しが悪いです。
だから、夏の間は風通しの悪い「紙の障子」は止めて、風通しの良い「簾の障子」に取り替えたのです。
どこかへ行っちゃったのでしょうかね。
縁側には作法どおり「風鈴」が掛かっていますけどね。
日本が南方に進出した時期からは『籐の家具』は随分普及した物です。
お金持ちの人はこうした「ハイカラ」なものをどんどん取り入れて行ったのです。
良い意味では先進的・・・悪く言えば成金趣味になるのでしょうね。
籐の椅子とかは「エマニュエル夫人」が座る物ではなく、お金持ちのおじいさんが座る物だったのです。
そもそも、明治期にはこうした家のご主人が洋服を着るときは「ハイカラーのワイシャツ」を着たものなんです。
そして、大正、昭和、戦後になるまでは、口ひげを生やし、「山高帽」だとか「カンカン帽」だとか「パナマ帽」だとか「鳥打帽」などと、流行り流行りの帽子をかぶって歩いた物なのです。
イギリス紳士風にこうもり傘やステッキを持った人も居たのです。
最近では、歩行補助器具として使う人だけですけどね。
かくかように、日本の昔のお金持ちは『ハイカラ』だったのです。
建築様式も少しずつ変えてはいますが、『床の間』のある部屋に「ペルシャ絨毯」「虎の敷物」なんて平気でやったものです。
この「奥川邸」の100年のうち、前の方50年がそんな時代だったはずです。
どんなハイカラな物が持ち込まれたのでしょうね。
んばにしろそんな物を季節によってトレイ換えたりするので、幾つもの蔵と納屋が用意されていたのですからね。
もちろん、女中さんや男衆が入れ替えや掃除をしたのですけどね。
カメラは
SONY α350+SIGMA10-20ズーム使用
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