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LUZの熊野古道案内

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2022年 01月 01日

2022年元旦

2022年元旦_d0045383_02155761.jpg


# by je2luz | 2022-01-01 02:16 | 熊野
2021年 12月 21日

寺子屋・学校

 集落の中心になるものには「学校」があります。
 「あります」ではなく、「ありました」が正しくなってきているようです。
 熊野市でも戦後しばらくは、「瀬戸分校」「清柳分校」「赤倉分校」「甫母分校」など一杯分校があったのです。
 交通の便も悪かったですがそれで毛子供が居たのです。
 つまり、子供の教育が集落の中心にあったということです。

 今の熊野市では一年に生まれる子供が年間80名から60名くらいになっています、
 全部で二クラス分なんです、
 旧熊野市で8か町村半、旧紀和町で3か村?ですから、過疎の進行がどれほどかわかりますね、
 「学校の統合」も生半可なことでは済まないことが分かりますね。
 小学校で「2校」が限界でしょう。
 道路状況が良くなって今市から、「交通の便」を改善すれば、教育的見地からしてもとうごうすべきだと思われます。
 校舎がそこそこ新しいのでもったいないのもありますが、立地条件からして引っ越した方が良いところもあります。
 中学校も二校、高等学校は一校ですね。

 そこまで行うと、「集落の中心」にはならなくなります。
 それが、「時代」でしょう。 
寺子屋・学校_d0045383_1031016.jpg
 それが「代官松」の切り株です。
 木本にあった「奥熊野代官所」の入り口にあった松です。
 昭和の中ごろまで生きていたのですが…
 木本小学校の入り口に立っていましたが、校舎建て替えの時に「天理教南紀大教会」の入り口に変わってしまいました。
 木本の歴史を語るものですが…


# by je2luz | 2021-12-21 07:00 | 熊野
2021年 12月 20日

熊野市 人口推移

 熊野市の人口推移」と言うものは、」全国に田舎の町と同様、減衰しつつあります。
 合併当時は3万人を超えていました、
 市になる要件の一つにじんこう3万人と言う壁がありましたからね。
 昭和30年当時だと、戸数7023  人口30819 と言う数字だったのです。
 その後の経過は… 昭和50年 戸数8994 人口 27026
          令和元年  戸数8855 人口 16746  と言う結果です。
 戸籍の関係で戸数は減っていなくても人口が減っています。
 個別の集落の人口は時代とともに喧嘩していますが、若い人が家を建てて引っ越しているだけで人口の増加にはなっていません。
 木本などは「ドーナツ化」を通り越して「過疎化」しています。

     昭和50年       令和元年
 木本  1731戸 4926人   1008戸 1784人
 井戸  1337  4045    1567  3093
 有馬  1737  5322    20074  4007
 久生屋 120  632     703   1567
 金山  213  588     342   869
 飛鳥  798  2315    604   1122
 五郷  586  1649    403   710
 と言う具合です。

 狭いところに人が住んでいるのが、「木本」です。
 他は平地が少ないところですから「広い場所」に住んではいません。
 飛鳥や伊佐跡の場合は「面積」は広大ですが、「山林」がほとんどです、
 飛鳥などは、大又・小又・小坂・佐渡・野口・神山に分かれていますが、一つの村なのに小学校が三校・中学校が一校あったのです。
 大又川沿いに細長く横たわった地形です。
 真ん中に大又川が横たわり、両脇に棚田的な農地が並んでいる手計です。
 田舎としてはきれいで済む良い場所ですが・・・
 効率としてはあまりよろしくないです。
 何が言いたいかと言うと・・・
 「集落統合」などがしにくいのです。
 中核の家を中心に何軒か集まる…
 なんてこともできにくいのです。
 集合住宅に集めるにも元の家から遠くなるし…
 集落ごとにそれなりの家はあるのですが…
 譲り渡してくれそうにありませんし…
 新しい集合時委託を建てるほどのこともなさそうですし…  
 やっぱり、「不動産」と言う概念が邪魔になりそうです。

熊野市 人口推移_d0045383_12522774.jpg


# by je2luz | 2021-12-20 12:52 | 熊野
2021年 12月 20日

集落…村・叢

 昔々…
 人間が集団で生活するようになって生まれたのが「集落」「村」だったのだと思います。
 それがだんだん多いくなって「町」なんてのが出来たのでしょう。
 それが時代とともに逆行始めたようです。
 人口もどんどん減り始めたようですし…
 田舎では「集落」の維持が出来なくなってきています。
 私が子供のころには田舎では子供が一杯居て…
 時代の転換期だったのでしょうね。
 歌謡曲でも田舎から都会へ出てゆく歌詞が多かったです。
 「リンゴ村から」「おさげと花と地蔵さんと」「哀愁列車」「ああ上野駅」…

 集落が寿命を迎えるようになる時、「集落って何ぞや」と、問い直してみることも重石来かも知れません。

 最初は家族・親族の塊だったでしょう。
 そしてその中心には、女性であったり男性であったりして「家長」が居たのでしょう。
 そのなかで生まれてきたのが「宗教」だったのかもしれえません。
 「自然のこわさ」「寿命のはかなさ」「人間のこわさ」いろいろ怖いものがあり、
何かにすがりたい気持ちが生まれて当たり前でしょう。
 「宗教」と言うには原始的でも世界中でそんなものが生まれていますからね。
 だから、集落の中心には「宗教」があったのでしょう。
 そんな中で。原始信仰・神々が生まれ、神話が生まれ、そして「仏教」なんてのが入って来、キリスト教だとかもはいいてきたのでしょう。
 宗教を言うやつは厄介なものです。
 修業が出来ていない連中が多いのらしく、「派閥」ができ、その派閥が恐ろしいものになりますね。
 現代でもイスラムの辺りでは派閥によって殺し合いがくぉこな割れています。

 その厄介なものが「集落」の中心になり、「集落維持」の役割を果たしてきたのですから…

 日本では古来の「神々」を信じるのと同時に「仏教」をも信じたようです。
 それがそこそこうまく行きそこそこ平和に過ごしてきたようです。
 神社は数限りなく多いし、仏教の方も数限りなく多いです、
 この辺では「曹洞宗」が多いようですが、「真言宗」「日蓮宗」「創価学会」「浄土宗」「浄土真宗」「天台宗」「天理教」「金光教」など限りがないほどの信者さんがおられるのだと思います。
 それぞれがそれなりの信者さんが居た時代は 良かったのですが、今の時代は「寺離れ」が進んでお寺さんの維持が難しくなってきています。
 この辺でも「廃寺」「統合」が始まっているようです。
 お寺が集落の中心だった時代とは違っていますから…

 「墓じまい」が話題になっていますが、「墓」って厄介なものです。
 粗末に扱ってはいけないようですし…
 「骨」って、扱いによっては「ゴミ」なんですけどねえ…
 墓に収まっている分には「遺骨」なんです。
 でも、墓が荒れたら…
 そろそろ、法的な面でも見直さないといけない時代でしょう。

 集落の見直しでも、「宗教」「墓」の見直しも必要な条件だと思います。
 ちなみに…
 私は「墓」「戒名」がいらない派です。
集落…村・叢_d0045383_11583324.jpg


# by je2luz | 2021-12-20 08:55 | 雑感
2021年 12月 18日

木本町・新田・水谷茶屋・上木本/記念通り

 木本町は熊野古道の北の入り口になっていました。
 「松本峠」をこえて、浜街道に入る入口でした。
 松本峠を越えて七里御浜越しに見た「熊野三山」の山並みは素敵なものだったと思います。
 街道は親父町から本町通に入り海岸沿いを通っていたのです。
 昭和に入り、起源2600年を記念して「記念通り」が作られ木本の中心がの駅との関係もあって、中心がずれていったのです。
 元々の地形では木本の左端は「池尻」と呼ばれる沼地。」田んぼだったようです。
 さすがにその時代のことは知りませんが、切立からの谷は要害山の阻まれ、おそらく、我が家の近くで海に出ていたこともあったのでしょうね。
 木本では浜地ですから水の確保が大変だったようです。
 新田からの水とゆで引っ張ってなんか箇所かの水受け場所に給水していたそうです。
 おかげで、近代上水道の整備が三重県でもトップに行われたようです。
 記念スタンプが「国会議事堂完成記念の記念切手」に押されています。
 それに、紀元2600年を機会に「記念通り」を整備したのです。
 戦時中に片側二車線両脇に歩道をとった立派な道を通したのです。
 木本町が元気だった時代です。
 戦後になってようやく世間が落ち着きかけたころになって記念通りが中忍になった行ったようです。
 その頃になると、人口の都市集中が始まり、若い衆はどんどん都会に出て搗くようになり、過疎化が始まってのです。
 木本町・新田・水谷茶屋・上木本/記念通り_d0045383_21181966.jpg
 この板塀の場所わかりますか?
 記念通りのど真ん中です。
 記念通りを通すときに中途半化に残った土地をりようして、商店が並んでいたのです。
 雑貨屋さん・テイクアウトの寿司屋さん・写真屋さん・印鑑屋さん・お総菜屋さん」が並んでいたのですが、奥行きが一間ほどの店でしたが、そこそこ商売にはなっていたようです。
 老朽化もあって取り壊されています。
 目抜き通りからお墓が見えるなんて…
 だから、無理やりみすぇを作っていたのでしょう。


# by je2luz | 2021-12-18 09:16 | 熊野