IE9ピン留め
2012年 02月 02日
熊野の旅 花の窟神社 春のお綱掛 1
 上天気でしたが、少しばかり風があり、寒いと言うより冷たかったです。
 一台がプラスチックのデジタル一眼、一台が金属のフィルム一眼…
 こんな時は材質の違いを肌で感じますね。

 参拝者は有名な割に少ないのはいつもの通りです。
 この右手にももう少し人は居ますがそちらはテレビ局とかの取材陣がほとんどです。
 境内は狭いのですが参拝したり取材するのに手狭になることはありません。
 主催者と取材陣を除くと150人居るかどうか…
 私など取材目的の人間には有り難いのですが、宣伝してる割に…

 花の窟神社の「綱」には飾りがついています。
 普段見るとはしごのように作られた「紙垂・しで」の代わりのような飾りとかしか無いのですが、「お綱掛」のすぐ後だと写真のように本物の花が取り付けられているのも見られます。
 「花の窟」とこの花との結びつきまでは知りませんけどね。
 いまは2月2日でもきれいな花がそろいますが、昔だったら椿とかしか無かったのかも知れませんね。

 綱を張る前の地上にある時はこんな感じです。
 「しめ縄」のイメージからすると随分細い物です。
 これは一月下旬に奉仕作業で作られるのので、見かけ通り柔らかな物です。
 こんな細い縄を空中高く100mほどもあればすぐに切れます。
 何本も一緒にして、補強のロープも使って張ってあります。
 でも、秋のお綱掛までに9は台風も来ますから切れて無くなることもありますね。
 今のような補強の出来なかった時代には綱がない花の窟神社にお参りする人も多かったでしょうね。

 まつりの様子は明日から載せます。
 私の好みで写真を撮りますから一部の参加者などはフレームに入っていないかも知れません。
 そこが新聞社と違うところでしょうね。

 
熊野市周辺地図です
 

# by je2luz | 2012-02-02 13:08 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 02月 01日
熊野の旅 一世紀あまりの歴史に幕 尾鷲ー須賀利巡航船
 この地方は元は「陸の孤島」と呼ばれていました。
 昭和36年に紀勢線が全通してようやく海岸沿いの大きな集落に陸上交通の便が出来たのです。更に道路が整備されたのはその後でした。
 なにしろ、リアス式海岸で険しい山がそのまま海に落ち込んでいるような所ですからね。
 三陸海岸ほど長くは無いですが40Kmほどの難所だったのです。

 紀勢本線が全通するまでは尾鷲ー木本間は「巡航船」で結ばれていて、途中の村や集落を順に寄港して居ました。
 波止場の無い港では「はしけ・伝馬船」でお客さんや荷物を積み卸ししました。

 こうして、大事な足だった「巡航船」は昭和30年代を最後に姿を消したのですが、一カ所残っていました。
 「尾鷲」と尾鷲市の飛び地の「須賀利」を結ぶ巡航船が残されていました。
 ここは地図の上では「海山町」に入っていて当たり前に見えますが、昭和の合併当時には陸上交通の道路も無く、外への通路は尾鷲と結ぶ巡航船だったので尾鷲市に入り飛び地になったのです。
 巡航船の就航は1915年・大正4年だそうです。
 100年を超す歴史があるのですね。
 陸路が通じたのは1982年昭和57年だそうです。
 
 私も何度かここを訪れたことがあります。
 もちろん、陸路ですけどね。
 こじんまりした漁村です。
 昭和60年代の前半ですが、のんびりしていて良い所でしたが、過疎化はもう進んでいましたね。
 そして、巡航船の利用者もどんどん減ったそうです。
 通学する子供も居なくなるし…

 と、言うことで…
 先日行われた住民投票で巡航船の廃止が決まったようです。
 深山の矢口まで入っている三重交通の路線に連絡するワゴン車が走るようです。
 一日4往復…
 海に比べれば「欠航」なんて回数は少し減るのでしょうね。
 巡航船より少し高くつくみたいですが、利用者のほとんどが行く「尾鷲市総合病院」へなら、波止場からのタクシー代が要らないので少し安くなるのだとか…
 町へ遊びに出るのでは無いのが悲しいですね。

 もし、この巡航船に乗っておきたいのなら早めに行かれた方が良いと思いますよ。
 航路の廃止の時期は新聞には出ていませんでしたけど…
 
 これは1962年の木本ー尾鷲の巡航船が木本脇浜に入るところです。

 
熊野市周辺地図です
 

# by je2luz | 2012-02-01 09:24 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 31日
熊野の旅 熊野のタクシー
 人口が少ないし、列車で降りる観光客もそんなに多くないのに、熊野市駅にはいつも客待ちタクシーが何台も並んでいます。
 もっとも「流し」なんてやっても手を挙げる客など居ませんし、市街地は10分もかからずに回ってしまいますからね。
 バスの本数は少ないし、足の無い人にとっては大事な交通手段なのでしょうが、どれくらいの利用があるのか心配になります。

 ここのタクシーは二系統あります。
 この二系統体制は私が子供の頃からの物です。
 私が子供の頃には「木本タクシー」と「双葉タクシー」というのがありました。
 「木本タクシー」は松原にあったと思います。
 「双葉タクシー」は水谷茶屋でしたね。
 木本タクシーの方が古いようでしたが、黒塗りのT型系統のセダンを使っていたりしました。
 私の祖父は、この木本タクシーの山本さんとか言う運転手がお気に入りでその人ばかり呼んでいましたね。

 紀勢線が全通し、紀伊半島の観光資源を狙って関西の私鉄が入り込んできた時、「木本タクシー」は「近鉄タクシー」になり、「双葉タクシー」は「南海タクシー」になりました。
 鬼ヶ城の売店や食堂は「南海電鉄」、入れなかった近鉄は外に「近鉄ロッジ」なんてのを作ったり…
 観光ホテルの「オレンジホテル」なんてのが出来たのは「高島屋日発」とか言う南海系列でした。
 尾鷲の「サンポートホテル」も同じ南海系列でしたね。
 しばらくして、国内の観光には先が無いと分った段階でこの大手二社は紀伊半島からどんどん撤退して行きました。
 国鉄紀勢線を近鉄に売却しようなんて動きもありましたが実現しませんでしたね。
 近鉄に売ってあったらもう少し客が居たかな?
 近鉄は伊勢線があるし紀伊半島一周となれば色んな戦略を考えたかも知れませんし、逆に不採算だからと言って廃線したかも知れませんね。

 観光部門から撤退してからもどうでも良い程度のタクシーはしばらく看板はそのままでしたが。今では「クリスタルタクシー」と「第一タクシー」になったようです。
 それでも二社体制ですね。
 基本的には流しをやらないので「ハイヤー」のように黒塗りです。
 夜中に人がうろつく町では無いのでタクシーという物は夜の12時を過ぎると駅にも居なくなるし走行しなくなるのです。
 最近は飲み歩かないので分りませんが、以前は12時になってくるとスナックのママさんが「タクシー呼びましょうか?」と必要そうなお客さんに声を掛けた物です。
 それを潮に客の半分くらいが帰るというパターンが多かったです。
 今は「運転代行」なんてのが田舎にもありますから様子は変わったでしょうね。
 でも、いまは飲み客ががた減りですから「代行運転手」も本業としては大変かと思います。

# by je2luz | 2012-01-31 09:48 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 30日
熊野の旅 三重県立木本高等学校第13回卒業生

 これが卒業50年目の同年会の記念写真です。
 卒業生384名 出席者88名 物故者41名
 まあ、こんな物でしょう。
 卒業生の男女比率は三倍も無かったのに、物故者では男が三倍も居ます。
 寿命が近づくともっと開くのでしょうね。
 この数字もまあこんな物でしょう。

 新制高校になって13回目って事です。
 生まれは戦時中、物心ついたのは戦後の何もない時期。高校に上がる頃にはまだまだ進学率も低く、まして大学まで行く人数は更に少なくなっていました。
 それでも、私の4歳違いの兄の頃よりは贅沢になって居ましたね。
 京大二名を筆頭に三重大、東京学芸、早稲田、慶応、明治、青山・・・結構一流校に入ったのも私の学年の特徴です。
 かと言ってガリ勉では無かったし…
 学校には逆らうし…
 まあ、高校時代は教員が勤務評定闘争で騒ぐし、生徒は生徒で放課後に生徒集会は開くし…
 大学時代は学園紛争…
 その名残でしょうか?
 私の年代はいくつになっても少しばかり大人になりきれないのが居ますね。
 私などは、「青臭い理想論」を未だに信奉しています。
 そして、人生は「恋愛至上主義」なんです。
 どちらも現実がついてきませんけどね。

 
熊野市周辺地図です
 

# by je2luz | 2012-01-30 14:14 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 29日
熊野の旅 もうすぐ春です
 昨日「寒ブリ」を書いたばかりですが、もう、今週末、二月四日は立春です。
 これからが寒い時なのですが、「立春」という言葉の響きは良いですね。
 現に寒くても陽は長くなっているし日射しもも強くなっています。
 そろそろ土筆も蕗の薹も顔を出すでしょう。
 日だまりのレンゲも…
 そして、そうこうしているうちに食べ損ねた大根にも花が咲き…

 春の前、二月二日には「花の窟神社のお綱掛」があります。
 寒いのでついつい写真を撮りに行かないのですが、風さえ吹かなければここも陽だまりなんですけどね。

 神事の開始は午前十時だと思います。
 ものすごく混むなんてものではありません。
 近隣の人たちと、花の窟神社の信者らしくよその人、マスコミとカメラマン、少しの文化人…と言った顔ぶれです。
 そんなに広くない神域に十分入れますからね。
 200人?も居ない感じです。
 それでも、最前列にでるには少しだけ早いほうが確実ですね。

 祝詞奏上・浦安の舞・玉串奉奠などがあり、奉仕作業の男衆が白装束で山に登り、道綱のロープを投げ下ろしてしめ縄を引き上げてから「お綱掛」が始まります。
 国道を横断させ浜に綱が出されると参拝者が引っ張って、綱を張ります。
 昔は「松の枝」に掛けたのですが、随分前に松が枯れて以来コンクリートの柱の天辺に掛けています。
 代わりの松は育っていません。
 松の生育には向かないような混載で足元がふさがれていますから、ひょっとすると育つ前に松食い虫の犠牲になるかも知れません。
 松の足元はきれいに掃除して松の独壇場にしてあげないといけないのだそうです。
 それでは神域が丸見えになるので雑木を除去しないのでしょうけどね。
 ずっと前に提言したこともありますが、変わりませんね。

 今は鳥居の向かい側に売店が新築中です。
 駐車場もつぶされているので少し離れた臨時駐車場になって居ます。
 「立派な」土産物売り場が出来ます。
 「年中無休」に近い形で店開きするという当初計画は聞いています。
 正確な事業計画が提示されないので詳しくは分りません。
 今年度中には完成すると思いますから、「縞の財布」が空になるほどでは無くとも、うんと土産を買って帰ってください。

 
熊野市周辺地図です
 

# by je2luz | 2012-01-29 10:15 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 28日
熊野の旅 寒と言えば…
 寒と言えば昔は「寒ブリ」でした。
 と言っても、戦前はものすごく捕れて、四国・宇和島などでは「鰤御殿」が建ったり、鰤を肥料にしたなんて話もありますが、私が物心ついた頃にはそんな時代は終わっていました。
 「大敷」と言われる巨大な定置網が発明され、鰤の習性も覚えられ、通り道にそれを仕掛けて「一網打尽」という漁法で捕りまくったのと、「養殖ハマチ」の成功で「鰤子」と言われる稚魚を乱獲したのとで資源が急速に枯渇していったようです。
 それを少し反省して、稚魚の捕獲などの規制をやったり、定置網の規模の拡大をやめたりしているようです。

 「鰤」は回遊魚ですから、潮に乗ってやって来ます。
 厄介なことにこの潮の流れは随分変わります。
 広い海を流れるのですし、気分次第で蛇行します。
 潮岬などの半島の所で方向が変わるのは当たり前ですが、海の真ん中でいきなり向きを変えて、熊野灘の遙か沖合しか黒潮が流れない時があります。
 当然、鰤でも鰹でもサンマでも通る場所が変わります。
 鰹やサンマは船の方で追いかけます。
 しかし、定置網は動けません。
 物理的になら少々は動けますが、認可された位置がきっちり書かれていて動かせないのです。
 伊勢エビの定置網などは磯のすぐそばなので船が網を巻き込むことは少ないですが、大敷となると沖合に張ってあるので大型船が巻き込んで航行不能になる可能性もあります。
 だから、海図にも記載があり、びくとも動いてはならないのです。
 潮の流れに合わせて、500mでも動ければ…

 鰤などの好きな音を流して群れを誘導しよう…なんて研究がされていたとか聞いたこともあるのですが、実用化は出来なかったのでしょうね。
 鴨やアホウドリなどならデコイなんて人形を置くだけで寄ってくるとか…
 水中では「イケ鰤」「別嬪鰤」の模型を置いてもそんなに遠くからは見えないでしょうね。

 鰤も「寒」の時期に捕れると「寒ブリ」と呼ばれて高く売れます。
 でも、時期がずれて春先になると「彼岸鰤」と言って値段が下がります。
 血管の中に寄生虫らしき物が出てきて生の切り身だと目に見えてしまいます。
 食べて毒になる訳では無いようですけど、当然値段は安くなります。
 漁師にとっては同じ鰤でも捕れる時期で売り上げがものすごく変わるのです。

 最近では「育ちすぎた養殖ハマチ」が「鰤」の名前ででていますね。
 でも、「本物の鰤」の切り身は照り焼きにしようとしても網をはみ出す大きさなんですけどね。
 うんと贅沢する気にならないと、「天然鰤の照り焼き」は食べられません。
 それと、焼いた後のロースターの掃除も頭に浮かびますしね。
 外でコンロを使って焼くのが一番おいしく、後も簡単ですね。
 何も高い備長炭でなくても、マングローブを切り尽くして焼いている輸入品の炭でもおいしくは焼けます。

 この使えなくなっている木本港にもここを母港にしている大敷の船が着くはずなのですが…
 そして、こうした流木が流れてその集団が大敷に掛かると…
 海の汚染が見えないうちに進んでいるので、大敷網の汚れがひどくなっているのだそうです。
 内海は少しきれいになったけど、外洋全体が汚れたとか…

 
熊野市周辺地図です
 

# by je2luz | 2012-01-28 11:16 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 27日
熊野の旅 温州が終わって…
 熊野市の隣は「年中ミカンの採れる町・御浜町」です。
 地域的に区別で、熊野市も年中ミカンが採れていますね。
 温暖だから…と言いますが…
 どちらかというとミカンのみが熟れるのは寒い時ですね。
 でも、温暖で無いと育たないし…

 ミカンの類では一番ポピュラーで、一番食べやすく、一番親しまれているのは「温州ミカン」ですね。
 これも品種が色々あって、この近所で見つけられた「崎久保」なんてのから「宮田早生」だとかなんだとか、色々あります、
 ミカンは「枝変わり」という突然変異の枝が出来よい物らしいです。
 その枝の「芽」を丈夫な夏みかんなどの木に「芽接ぎ」するとどんどん増やせます。
 もちろん、「交配」で品種改良もされていますし、品種は増える一方です。
 「温州」以外のミカンも毎年くらい新しいのがでているようです。
 でも…
 「新品種発表」などでは新聞もテレビも褒めそやしますが、現実は中々売れません。

 そもそも、「温州」以外の「晩柑」は昔の「夏みかん」に始まって中々売れないので苦労して売れる物を作ろうとしてきたのです。
 「甘夏」「八朔」「ポンカン」「三宝」「ネーブル」なんて比較的名前が売れた古くからの物の他には、「カラー」「デコポン」なんて知る人ぞ知るもの、地元でも知られていない品種…
 今年からは「ザボン」の親戚のようなどでかいやつが役所のカウンターなどに置かれています。
 名前を聞いたけど忘れちゃいました。
 テレビでもやっていましたが、子供の頭くらいですが、皮と白い部分がものすごく厚いようです。
 どうやら、見せびらかしたり飾った方が良さそうな物みたいです。
 「ザボン」だって、そのもの自体よりは「長崎名物・ザボン飴」の方が有名ですからね。

 と、言うことで…
 青空市場などでは「ポンカン」が場所を占領し始めました。
 なのに…
 この辺独特だった「春光柑」の姿が近年見られません。
 「おいしい!」と言うほどのものでは無いので消えちゃったのでしょうかね?


 
熊野市周辺地図です
 

# by je2luz | 2012-01-27 14:17 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 26日
熊野の旅 前鬼の山に雪が掛かると…
 熊野の山間部、飛鳥の辺では、「前鬼の山に雪が掛かると寒い」と言われてきました。
 「前鬼」とは大台山系にある山伏の修行場でもあった所です。
 集落もあったそうですが、今はもう無いと思います。
 飛鳥の一部からほんの少しだけその辺りの山が見える所があります。

 大台山系は1000mを越す高い山がありますから、雪が積もります。
 海からも遠いので寒い所ですね。
 そして、寒波が来ると最後の雪を全部引き受けてくれます。

 この山塊に雪が掛かるとその後からは、雪の頂を越えてくるので季節風がうんと冷たくなります。
 海岸線の木本ではその風を直接受けないのですが、温度の影響を受けますからやっぱり寒いですね。
 少し寒さの質が変わるという感じです。
 同じ海抜でも、井戸川沿いになると川伝いに瀬戸奥w越えた大台山系からの風が吹いてきますから、風も強くなり「体感温度」がぐっと下がります。
 この二日ほど前から、「前鬼の山」は真っ白です。
 しばらくは溶けそうに無いですね。
 と、言うことは…
 しばらくは寒い日が続くのでしょう。

 こんな季節でも、東から南に向かう斜面の熊野古道・大吹峠や松本峠などは季節風を受けないので日だまり状態です。
 中辺路のような山間部だと霜も降りるし道も凍る日があるでしょうけどね。

 そうそう…
 又々鬼ヶ城への道路が閉鎖なって居るようです。
 工事の関係もあって、一番メインの鬼ヶ城東口から千畳敷への通路が通れないようです。
 これが再開されるまでは鬼ヶ城観光は全く出来ません。
 周遊路も通れることの方が少ないし…
 世界遺産では無いし、古くからの観光地だし…
 お役所からは古女房のようにないがしろにされている感じです。
 「観光」を言うなら「駅前の噴水」よりは「鬼ヶ城」の方が大切だと思うのは私だけでしょうか?

# by je2luz | 2012-01-26 09:33 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 25日
熊野の旅 今年はサンマが高い
 今は旧暦の20日…闇夜に入りました。
 この辺のサンマ漁は「ぼけ」と言われる「棒受け網」で捕るものがほとんどです。
 漁体に傷が付かないので良いのだそうです。
 更に、サンマの水揚げでは日本有数と言われる「遊木・ゆき港」のサンマ漁船は闇夜の明け方に掛けて漁を行います。
 集魚灯を使うので闇夜で無いと効果が少ない…
 明け方になると宵の口に腹一杯餌を食べたサンマもそれを消化しておなかがすっきりしている…
 と、言うことで、はらわたごと丸干しにするこの辺の干物「サンマの丸干し」には向いているのです。
 おなボンポンにうんちが入っていたのではうまく干せませんからね。
 人間が絶食して自然ミイラになるのと同じですね。
 ???
 食欲が落ちるかな?

 このシーズンは暮れが近づいてもサンマが捕れず、ようやく捕れても脂がのっていて「サンマ寿司」には向きませんでした。
 丸干しにしても、今風の「一夜干し」みたいな柔らかなままで食べるには良くても、青光りする丸干しには向きませんでした。

 ようやく捕れ始めても量が上がりません。
 魚などは量が少なければ高値になります。
 捕れすぎれば燃料代にもならないほど浜根は下がるし…
 出漁見合わせなんてするほどになっちゃうのですからね。
 と、言う状況なので今年は「丸干し」が高目です。
 この辺では「サンマの丸干し」は「一吊り」という売り方をします。
 サンマは人工乾燥以外の「天日干し」は片側二匹、両側で4匹を紐でくくり、振り分け荷物のようにして竿に掛けて乾かします。
 この方法だと紐を結ばなくてもくくれるし、乾いてきてしっぽの方がやせてもサンマの自重で段々締まって行き抜け落ちることが無いのです。
 今はナイロンの紐ですが昔は稲藁でしたね。

 このような売り方が基本なので、この辺ではスーパーでも丸干しはつるして売っていることが多いです。
 でも、暖房などでどんどん乾いて行きますので、長く売れないとカチカチ…「カンピンタン」になってしまうのですけどね。
 それが嫌な人はパックしたのを買います。

 「サンマの丸干し」の値段を言う時も「一吊り」を前提にすることが多かったのです。
 そのサンマの値段は「298円」位がスーパーの普通の値段なのですが、今年は「398円」がズッと続いて居ます。
 国道のそばで、「丸干しが安い」とされる水産会社の直売所も、今年は、「激安! 一匹75円!」と書いてあります。
 いつもの年ですとこの値段が町中の普通で、この魚屋さんが「激安」と書く時は「60円」「50円」のはずなんです。
 やっぱり高いようです。
 脂も完全には落ちきっていないようですし… 
 丸干しは値段を動かし良いですが、「サンマの寿司」って、一匹10円高いからと言って通販価格などは上げにくいでしょうね。

 この月夜の間にどれだけ水揚げがあるでしょう。
 増えないと「新物」の丸干しが下がりません。
 今は冷凍物が安いのですが、今年が高いままだと今年の暮れ頃の冷凍物が少なくなって次のシーズンの出だしも高値かも知れません。
 北から下りてきたサンマですが、放射能は大丈夫らしいです。(測っていないようなのですがね)
 回遊魚でどんどん南下するので根付きの磯魚なんかよりは汚染されにくいでしょう。
 わざわざ「ラドン温泉」なんてのへ出かける人が居るくらいです。
 夜光の腕時計や目覚ましを使ってきたのです。
 そう思えば気が楽になるでしょう。
 地球を汚したのはとんでもない話ですけどね。


 
熊野市周辺地図です
 

# by je2luz | 2012-01-25 10:21 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 24日
熊野の旅 限界集落 農業用水路
 昨年の12号台風関連水害で市内での被害は各方面で発生しました。
 山間部では当然のように農地と農業用水路に大きな被害が発生しました。
 このあたりの農業用水は大又川などの本川やその支流の谷川に堰を作って水を引き込んでいます。
 あふれることの無い川があふれたくらいですから、その堰や水路の入り口付近が無事で済むはずはありません。
 堰の消し飛んだ所、入り口付近が石ころや岩で埋まってしまった所、途中で土砂崩れがあって破壊された所…様々です。

 こうした水路はその受益者で先祖代々営々と管理されてきました。
 大きな工事は役所にやって貰ったりしていましたが、昔はその補修管理、復旧作業などは集落の出合いで行ったものです。
 春先の「溝の掃除」「水漏れ箇所の補修」に始まって、苗代作りまでにはきちんと整備したものです。
 川の部分は台風で壊れることもありましたが、台風の時期が早いと田んぼにはまだ水が要りますから水が引ききらないうちに筵や杉の葉っぱなどを使って仮に補修して水を連れてきたものです。
 私が飛鳥で暮らしたのは子供の頃ですし、そうした作業にかり出されることは無かったですが、その頃には残っていた「若い衆」がパンツ一丁で半ば命がけのような作業をしたのです。

 その頃の田舎の集落の力はすごかったですね。
 段々「若い衆」が居なくなり…役所の面倒見も良くなり…
 せいぜいセメントの現物支給があるだけで自力更生していた作業も、セメントを貰っても若い衆は居なくなるし出来なくなってきました。
 昔ならみんながよってたかって片付けた程度のゴロ石の除去も今では出来なくなって市の災害復旧を待たなくてはならなくなっています。
 平均年齢が70歳を越すお百姓さん集団では無理な話ですね。
 これが田舎の現実なのですが、都会の人には分らないと思います。
 農業用水にはきれいな水がいつも流れていて…
 道端には草が生え花が咲いている…
 でも、これは集落の力があってこそ維持されてきた里の風景なのです。
 河原の竹藪一つでも、竹を生活に使わなくなったし人出が入らなくなったので荒れ放題、まともな河原竹も育たなくなっているのです。

 全国に人はまだ居るけど、集落としての力が無くなって生活道路や農業用施設の維持も難しくなってきた「限界集落」が増えているのです。
 テレビなどの「限界集落報道」は少し情緒的な甘いものに見えます。
 そこから送り出した人材で日本国の復興と繁栄が築かれたのですけどねえ…
 今のマスコミ人の親とかおじいちゃんはどこの人かな?
 昔の映画のように「ルーツ」を探せば「限界集落」とその予備軍にたどり着くかも知れませんよ。

 今では
 「ああ 吾が はらから いかにおえあす…」
 なんて歌も歌われませんが、故郷には廃屋しか残らなくなってきたのです。


 
熊野市周辺地図です
 

# by je2luz | 2012-01-24 09:55 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 23日
熊野の旅 限界? ヤッサノセ
 この時期にこの周辺の集落では「初集会」とか言われる「区・集落」の総会が開かれます。
 この「区」は行政上は何も根拠の無いものですが、この代表者の「区長」「町内会長」はその地区の代表と言うことで役所が地元の意見を聞く時の代表者になったりします。
 昔はその地区の名士がずっと持つことになっていましたが、今の時代には「名士」「旦那さん」なんてのがどんどん居なくなってしまい、最初の頃は「目立ちたがり」「やりたがり」の人がやる例もありました。
 近年では過疎と老齢化で引き受け手が無くて困る所が増えています。
 体力的にもしんどいので二年とかの任期が切れれば兎に角やめられるように会則を変えたり…
 飛び飛びにしか家が無く、空き家だらけで…
 何かやろうにも実行部隊が高齢者ばかり…
 「昔取った杵柄」もその気があっても重くて持ち上がらない…
 見かけは「限界集落」では無くても先が見えている…
 「そんな所が増えた…」なら良いのですが、ほとんどがそうなのです。

 昨日もある集落の「初集会」に出席しました。
 顔ぶれは二十年前も同じ…
 50人ほどの出席者で年金対象でないのは10人も居なかったでしょう。
 区長も体調を理由に退任して交代でした。

 そして…
 何十年も続いてきた「区の盆踊り」が議題になりました。
 踊り手が居なくて音頭取りの稽古をしても謳いようが無いのが近年の盆踊りです。
 「ソーラン」は踊っても「ヤッサノセ」は踊らないのが今の人ですからね。
 「全国で踊っている」「流行ってるんだぞ!」となったら徹夜ででも踊るのでしょうけどね。

 初盆の家が主体で盆踊りが行われ、みんなで供養してきたのですが…
 初盆は減らないのですが、遺族がもう地元に居ない事が多いのです。
 一時帰省で初盆の寺参りと墓参りに来るのですが、地元に居る時のように一週間も十日も初盆の関わっていると言うことが出来ないのでせわしなくて集落主催の盆踊りにつきあっていられないという声もあるようです。
 初盆供養はそれぞれ所属の宗教団体でありますからね。
 「曹洞宗」「日蓮宗」「天理教」少なくとも三つはある所です。
 それは「宗教行事」ですから抜けることは出来ないし、それぞれの所で「灯籠焼き」の盆踊りをやります。
 だから、区でやっても合理化にはなっていないのは確かです。

 昔は盆踊りが盛んで…・みんなの楽しみで、お盆の時期にはお寺・お墓・小学校の運動場などあちこちで幾晩も行われました。
 それでも、毎晩毎晩踊り手も見物人も一杯集まったものなんです。
 帰省した同級生との再会もあり、恋もうまれ、帰りの夜道で…なんて事もあったのです。

 それなのに…
 「区主催の盆踊りをやるかやめるか」という議題では、圧倒的多数で「やらない」という事になりました。
 今まで会場に使わせて貰っていたお寺は初盆の家があればお寺として灯籠焼きもあるでしょうし、盆踊りもやるとは思いますが初盆が無ければ取りやめでしょうね。
 
 この「区の盆踊り」は昔は「青年団の盆踊り」で小学校の運動場でやっていたものです。
 来る人が少なくなるし、青年団が消滅するし…それを「区」が受け継いでだだっ広く感じるようになった小学校の運動場から一番檀家の多いお寺の庭に引っ越したものだったのです。

 寂しい話ですが、これが一つの現実です。
 やめられていた伝統行事を復活させる話も見聞きしてきましたが、この先では集落自体が維持できないくらいですから無理でしょうね。
 以前の取りやめた理由は、大体において「古くさい」というものだったので見直しも出来たのですけどね。
 下の写真は前にも載せた50年以上前の盆踊り風景です。


# by je2luz | 2012-01-23 10:37 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 22日
熊野の旅 メリヤス工場・ハーネス工場
 かつて日本が高度成長期で今の中国のように「世界の工場」だった頃…
 熊野市などのような田舎には「メリヤス工場」が一杯ありました。
 プレハブのような建物に工業用ミシンをずらりと並べ、ややおばさんに近い女の人が一杯働いていました。
 工場と言ってもどでかいものではありません。
 田んぼ一枚埋めて作った程度の工場があちこちにばらまかれていたのです。

 その頃に日本の給料は世界で高い方には入りませんでしたから成り立っていたのです。
 それでも、都会とか都市近郊では成り立たず田舎に来た訳です。
 今のように交通網が整備されている訳では無く、名古屋などまでの時間も長かったけど田舎の安い給料が工場を誘致していたのです。
 そして、為替自由化・円高・日本の給料の高騰でこうした「メリヤス工場」は撤退して、まずは韓国や台湾に拠点を移しました。

 田舎の「メリヤス工場」だからと馬鹿にしなさんな。
 縫っていたのは「グンゼ」なんかの一流下着などです。
 ミシンで縫った糸の端っこの始末も「ひげきり」と言われ、内職に回されました。
 こうして、安いと言いながらも、若い嫁とかおばちゃんの仕事が出来、少し家計が裕福になって行ったのです。

 同じように「ハーネス」という車の配線を組み立てる工場もあちこちの進出しました。
 熊野では波田須に少し大きな「東洋ハーネス」という工場が進出しトヨタかな?の配線を作っていました。
 これも、結構な数の若手のおばちゃんを雇用していましたね。
 この工場も「不便だから…」「遠いから…」撤退したのでは無く、もっと遠い国へ仕事を持っていったのです。
 
 こんな経済の動きの中で高速道路の無い所では「高速が無いから…」という嘆きが聞こえたものです。
 今でもそう考えている人が結構居ます。
 日本には「土地神話」などと同じように「高速道路神話」があるようです。

 かくして、熊野にも途中出来てては居ても「高速道路」「自動車専用道路」「高規格道路」の「尾鷲熊野道路」だもうすぐ出来ます。
 誰が走り何を運ぶのかが見えませんけど…
 そして、「工場用地」も造成されています。
 なんだか日本では30年ほど前に終わった図式を見るようです。


 
熊野市周辺地図です
 

# by je2luz | 2012-01-22 10:50 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 21日
熊野の旅 近大高専が無くても…
 近畿大学熊野工業高専が昨年の4月から名張市に移って行きました。
 もう、20年も余って前からお客さん不足で全く採算など合わない状態だったのですから、よくここまで粘ったものだと言うことです。
 営業努力不足、理工科離れなんて問題では無く、進学者の絶対数が足りないからです。
 陸の孤島的にぶつ切れになっている人口4万弱、老齢化指数30%を越す所に、「三重県立木本高等学校」「三重県立紀南高等学校」「近大高専」の三校があるのですから誰が考えても無理・無茶な話なのです。
 なのに…
 「何とかしろ!」 の大合唱でした。
 根本解決は「子供を増やす」しかない話です。
 日本中で高校が廃校になり、地方大学も閉校している時代なんです。
 国力がどんどん落ちることも明白な時代に入っているのに「怖すぎる話」なので国も黙りを決め込むのですね。

 今年の高校進学希望者の動向が発表されました。
 まだ、最終調整があって倍率の変動はあるのですが…

  木本高校 普通科   定員80 志望者72
         総合学科定員160 志望者153
  紀南高校 普通科  定員120 志望者104

  木本高校 定時制普通科 定員40 志望者1

 こんな状況です。
 定員割れです。
 昔の木本高校は普通科・商業科・家庭科の三学科8クラス400人の定員でした。
 そして、高校進学率は20%程度・・・ 
 潜在的な倍率はものすごかったのです。
 その頃より日本の子供数は半減したはずですね。
 さらに高校の数は数倍になって…

 定員数が数倍になっても未だに足りないのは、昔で言う所の養老院ですね。
 「増床せよ」の大合唱が続いて居ますがこれももう少しするとお客さんが減ることになっています。
 ここだけの話では無く日本全国です。
 こうした部門では田舎が先進地ですからね。

 と、言うことで手の打ちようのない寂しい現実です。


 
熊野市周辺地図です
 

# by je2luz | 2012-01-21 11:29 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 20日
熊野の旅 神話 新聞記事
 ブログを書くのには新聞記事というものがヒントになることが多いです。
 このブログを立ち上げた頃には書いたことの無いことばかりなのでネタはいくらでもありました。
 そして、「世界文化遺産」に指定されたので、それまでの「事前運動記事」が『景気づけ記事』になって、地方欄だけでは無く、文化関連、社会記事まで至る所に出ていました。
 それがその後の新しい世界遺産の追加と共に関心はそちらに移り、全国版の方に載る回数が減りました。
 そして…
 最近では地方版にもほとんど載らなくなりました。
 記事が足りないのでしょう…およそ関係ない他所の記事がどかんとローカル面に入り込む始末です。
 「文化遺産」ですから本来地味ですし、ドラマチックなことがある訳では無いので盛り上げようが無いんですよね。

 日本の神様の多くがここ熊野の有馬で生まれたと言っても神話の世界です。
 日本の神話より「ギリシャ神話」の方が多く読まれているのでは無いかと思うほどの国ですし、およそ、日本の神話とかは「マニアック」なもので、近年では「神道かぶれ」の人しか知らない様になっているようです。
 おかしな事に「大和言葉」?だったのでしょうか…
 日本の神様の名前は難解ですね。
 読めません。
 「ゼウス」や「ビーナス」「アポロ」「エルメス」なんて方が私もなじみが多いです。

 難しいと言うことがマニアの優越感をくすぐるのでしょうかねえ…
 お経だって難しいままで大声で唱えて有り難がらせる方式と同じ根っこでしょうか?
 昔は西洋でも「聖書」はラテン語で学ぶものだったとか言いますけどね。
 専門用語で権威付けしたがる学会とか、意味不明カタカナ語でえらく見せたがるお役人もどこか似ているような…
 こう書いたら、それぞれの部門から、「あれらと一緒にするな!」と、叱られそうです。

 そもそも…
 「我が身はなりなりてなりあまれるところ一ところあり、かれこの我が身のなりあまれるところを、汝が身のなりあはざるところにさし塞ぎて、国生みなさんと思ふはいかに」
 なんてのが日本の神話で、現代文に直したら少し前なら発禁になるでしょう。
 テレビドラマでもこの辺りは映像化しにくいでしょうね。
 モザイクを掛けると「AV」になっちゃうかな?
 でも、この辺りから説いて貰えば神話も親しみよく成るかも知れません。
 「イザナギ・伊弉諾景気」なんて言葉を使った時代もありますが、その時もこの伊弉諾尊の事がは引用されませんでしたね。
 詳しくは分りませんし書きませんからどうぞお調べください。

 生んだ場所と墓は分っていますが、口説いた場所や「いかに!」の思いを達した場所は分りません。
 まさか久生屋のモーテルでは無いでしょう。
 有馬の海岸と松原かな?

 右手の社叢の辺りで産んだそうですから、さしずめこの川で産湯を使ったのでしょう。
 名前も「産田神社」で「産田川」ですからね。

 
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# by je2luz | 2012-01-20 11:05 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 19日
熊野の旅 オークワ神志山店閉店
 長年営業してきた「オークワ神志山店」が明日の20日で閉店します。
 小型のスーパーでコンビニの親分の大きさですが、小さいので便利という人も居るし、割合と入りよい立地だったので、そこそこお客さんも居たようですが閉店にするそうです。
 いくら地元発祥のスーパーと言えども商売ですからね。
 木本のオークワが発祥の三重県側オークワ…最初は風車のマークの「主婦の店」のチェーンでオープンした店です。
 地元では熊野本店・井戸店・芝園店・神志山店などと展開し、井戸店がジャスコの進出で閉鎖し、芝園店は大型化して有馬店になり、新宮オークワが阿田和のピネに大きな店舗をオープンさせ…
 近年ではコンビニの「サークルKが展開したりで人口がどんどん減少する熊野市・南牟婁郡の小売業界はどんどん厳しくなっているのです。
 人口だけでは無く、「高齢化」というやつが一人頭の消費金額を下げて行きます。
 食費なども食べる絶対量が減ります、更に中味も野菜中心に移って行きます。
 だから、段々スーパーなども床面積を減らさないといけないようです。

 神志山店の両脇には「有馬店」「ピネ店」があるのですし、車での買い物にはさほど不便には成りません。
 でも、「有馬店」まで2.5Km、「ピネ店」まで3Kmほどありますね。
 おばあさんが歩いて行ける距離ではありません。
 あの辺では「田舎の百貨店」みたいなお店はとうの昔に無くなっているし…
 なんだか都市近郊の町のようになってきました。
 木本まで来てオークワ熊野店・本店で3000円買えば市内の近い所は配達はしてくれますが・・・
 まとめ買いしないとお年寄り一人住まいでは3000円にならないし、その時しか新鮮な魚など口に入らなくなりますね。
 段々、移動販売が必要になりますが中々新規さん有する人は居ないようです。
 始めちゃうと勝手に安も事も出来ない生命線の役割を担いますからね。

 こんな消費者が中心の町ですから「イベント」なんてのをやったからと言って買い物客が増えて消費が拡大するはずも無いのです。
 住民の1/3が月収6万円ほどの国民年金生活者ですから…
 厚生年金の退職hさがほとんど居ない田舎では、公務員の年金生活者は高額所得者なんです。
 「ニューファミリー」なんてものが存在した時代の幻影に若い人まで浸っているような気がします。


 
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# by je2luz | 2012-01-19 10:40 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 18日
熊野の旅 熊野市は貧乏?
 熊野市は全国の田舎の町同様。「過疎」「高齢化」が当たり前のことになっています。
 林業と水産以外には外資を稼ぐ道の無かった田舎ですから、この四半世紀のように林業が壊滅し、近海漁業も破綻してくると外からやってくる金は「地方交付金」「補助金」「公務員給料」「年金」なんてのしか無くなります。
 だから、予算も100億程度しかくめません。
 その百億円のなかで他所様をもてなす方に沢山回すトップが居てちょっと困っては居るのですが…

 この乏しい財源を豊かにする道も半世紀前にはあったのです。
 日本の原子力が東海村で動き出し、「原子力発電所計画」が全国に展開された時に熊野市井内浦にも据えることになったのです。
 漁民を中心に猛烈な反対運動もあり、計画が頓挫し、最後には候補地の丸印も消すことに成功しました。
 その頃には、熊野市民と言うだけで「越前ガニ食べ放題」「加賀温泉郷の旅」なんてのはただで行けたものです。
 旅好きの人なんか二回も三回も行きましたね。
 会社の慰安旅行まで中電の接待で済ませる所もあったのです。
 別にその会社が中電の関連企業とか出なくても良かったものです。
 私がまだ東京に居た頃からの反対運動で、私が議員になった時にようやく終わったのです。
 でも、熱心に反対する遊木を中心とする漁師さんが居たにしても、推進派も居ましたし、他所に比べればおとなしい方なのによく止められたものです。
 候補地がちょっと手狭と言うこともあったのか、中電の交渉の中心が熊野に無かったからか…
 終息に向かいつつあった時でも工作員が常駐し市民や議員に働きかけをしていましたね。
 反対を掲げて議員になった私の所へもすぐに工作員が来ました。
 お隣の国の工作員と違い拉致したりしませんでしたけどね。

 でも、本当に安全で良いことばかりの「原発」ならあんなにお金を使って裏工作したり、正規の「電源立地交付金」の他に湯水のように寄付金や補助金が出てくるはずありませんよね。
 「万一の時はよろしく!」という事前迷惑料・慰謝料の性格のお金だと思います。
 すごく貧乏だった熊野市と市民でしたがそれ手には乗りませんでした。
 時の市長も市長としては「やってお金が欲しい」のが見えていましたが、「市民を騙してまで…」と言う政治家ではありませんでした。
 首長とすれば、建てたかったら立派な図書館・市民会館・文化会館・体育館・集会場…ばんばん出来るのですから毒のお金でも手を出したくなりますよね。
 だから、8期目の選挙までは、「やる」とも「やらん」とも言わなかったくらいです。
 
 この市長…坪田誠さんは連続8期勤めた人ですが、最大の功績は「原発を作らなかった」事でしょうね。
 でも、就任すぐの時の「伊勢湾台風の災害復旧特需」で最悪だった財政も持ち直し生き延びられたのです。
 三重県二区の大物代議士、田村元さんと市長の坪田誠さんは伊勢湾台風のおかげで安泰になったと言えますし、本人もそう言っていました。
 その背景もあって「原発阻止」も成功した部分があるでしょう。

 しかし、しかし…
 今は貧乏です。
 でも…
 原発が出来てお役所の金が楽になって、立派な会館とか意味も無く広い道路や橋が出来ても、不思議な事に過疎も進むんですよね。
 変な交付金が無くなったら膨らんでしまった財政も破綻するので、時限立法をどんどん延長していましたものね。
 特別立法が無ければ原発城下町なんて廃墟になるのです。

 何もない…
 貧乏だ!
 でも、良いじゃ無いですか。
 子供たちが無事に育ってよその土地で元気に生きているのですからね。
 そして、何も無いほど開発されていなかったから「世界文化遺産」にも指定されたのです。
 列島改造論の頃に書いた「熊野市総合開発」なんてのだと、我が家の前の浜を含め松本峠だなんだという所に10本を超す空中ケーブルカーが掛かるはずだったのです。
 そんなのがあったら、「文化遺産」には成りませんよね。
 原発があったらそんなばかげた施設も出来ていたかも知れませんね。
 
 清く正しく美しく…
 貧乏してても心は錦…
 なんて言いませんが、無くても良いじゃありませんか。


 
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# by je2luz | 2012-01-18 10:09 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 17日
熊野の旅 雪が降った
 昨日の写真は赤外写真で5月頃なので木々の新芽が真っ白に写っていたものです。
 今朝は山の頂が奔走に白くなっています。
 海に面した斜面も大体標高400m位で線を引いたように上が真っ白で下は曇り空なので黒く見えています。
 昨夜降りだした雨が明け方くらいに雪に変わったのでしょう。
 
 「雨は夜更け杉に 雪へと変わるだろう…」なんて言われても、雪が雨になれば音がするので気がつくかも知れませんが、雪に変わったも外を見ないと分りませんね。
 それに、この雪は我が家のような海岸線では、すっと小雨だったのだと思います。
 庭や畑にとってはほんのお湿りでしたけどね。
 それでも雨はすごいです。水が流れるほどにならなくても畑の土はきちんと奥深くまで湿っています。

 今日は今からその雪が見えている山の向こうに今から登って行きます。
 国道には雪は無いと思いますが、この辺では雪が路面にあると怖いです。
 行きたい作画できていない車が多いですし、雪道なんて走ったことの無いドライバーが多いですからね。
 
 続きは帰ってから各ます。

 帰ってきました。
 やっぱり道路には雪も無く、標高400mちょっとの辺りから上だけが雪でした。
 夕べも今朝も暖かかったのに…
 登っていったのが10時頃、帰りが12時頃だったのにその二時間で山の雪もほとんど消えていました。
 気温は高いし晴れてくるし…
 
 これくらいの寒さでも、日本海からの雲が雪を降り残してやってくるとこうなります。
 今年は雪国の雪が多いようですが、こちらもこんな風な雪が時々降っています。
 今のところ「積雪通行止め」なんてのはありません。
 毎年一回か二回は42号線も通行止めになります。
 うんと運の悪い人だけが紀勢に引っかかります。
 でも、午前中に解除なることがほとんどです。
 ただし・・・
 路面に雪がある時は自分が雪道になれていても南国では安心しないでください。
 南国の運転手は昔のゲーム「南極大冒険」?のペンギンよろしくノンストップで来ますからね。
 自分が落っこちるのなら良いのですが、他の車を使って止まるなんてのがあります。
 まあ、アフリカの水泳選手がオリンピックに出ていたようなのが居てもおかしくないのが南国なのです。
 土砂降りの中の走行には慣れているのですけどね。


 
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# by je2luz | 2012-01-17 09:41 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 16日
熊野の旅 渇水期
 今年は雨が少ないです。
 この辺は雪が降りませんから雨が無いことには地面が乾いてきます。
 もう少し北の方は山の上だけでも雪が積もるので少しずつでも谷川に水が供給されるのですが、それもかなわないのでしみ出す石清水だけが頼りです。
 昨年9月に半年分もの雨がいきなり降ったのですが、あの式の雨はじっくり染み込んで後々までの地下水を維持するなんて働きは少ないです。
 かと言って、中途半端に染み込みよい所では岩盤の所に水が溜まるほど染み込んで「深層崩壊」なんて山崩れを引き起こします。
 見渡した所、大昔にそうした崩壊があったような地形があちこちにありますが、実際に起きたのは台風12号の時だけです。
 おそらく、淺井戸の水位などは急上昇したのでしょうけどね。

 と、言うことで今は渇水期です。
 渇水期になると、「滝」と言うものが格好良くないものになります。
 小さなものは干上がって「崖」「岩壁」になってしまいます。
 日本では大河の滝が無いので多くの滝がそうなりますね。
 この辺では姿の良いので有名な大泊の滝「清滝」も岩壁が帯状にしめっているので「滝」だと分る様になるし、「新鹿の滝」は完全に消滅します。
 那智の滝も上流の山の保水力が落ちてしまい水切れを起こすほどになってきたので、お坊さんが中心になって山の手入れを始めているようです。
 山が荒れてくれば水も切れる代わりに、出水期には石・岩が流れてくる可能性が強くなり危なくて滝壺には近づけなくなりますね。

 どこの滝の滝壺にも大きな岩がゴロゴロしています。
 あの岩は全部落ちてきたものでしょう?
 だからこれからも落ちて当たり前ですね。

 「イグアスの滝」を見たことがありますが、ああいう巨大な滝は「ものすごい」の一言です。
 「美しい」なんて言葉は浮かんできません。
 あの滝でも水の多い季節と少ない季節があるようですが、どれだけ景色が変わるのでしょう?

 日本には四季があり、単なる「乾期と雨期」では無いのが良い所です。
 渇水期は梅雨明け「土用」と冬から冬場と春先の三回です。
 この時期の谷川はほとんど水が無くなるのですが、「アメノウオ」「イワナ」なんてどうして生き延びるのでしょうね?
 水の切れない淵に集まっているのでしょうね。
 そんなときに「一網打尽」なんて悪行をやらなかったから谷川に魚が残っているのでしょう。


 
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# by je2luz | 2012-01-16 10:40 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 15日
熊野の旅 小正月 水餅
 今日は15日…小正月って事ですね。
 昔ならようやくこの辺で正月行事が終わるって事です。
 そして、少し前までは「成人の日」だったわけです。
 もう、「小正月」も「成人の日」も一般社会では関係なくなっていますね。
 その分、「正月気分」なんてのも抜けるのが早いでしょう。
 「新年会」なんてのも少なくなっているようですね。
 かと言って、昔より日本人がよく働くようになったかって言うと、その逆のような気もします。
 なんだかんだと言った行事をしなくても年中祭日・休日みたいになっちゃったのかも知れません。
 私は元々曜日に縛られることの少ない人生だったので余り変わりません。

 正月の終わりの行事的な「どんど焼き」とか「鏡開き」なんて風習ももう一つぴんと来ません。
 「どんど焼き」みたいな行事もじいさんの時代にはあったとか聞いたような気がしますが私自身は知りません。
 「鏡開き」は我が家では何日にやっていたのでしょう?
 ラップの無い時代…暮れの12月28日に搗いた鏡餅を飾ってあったのですから、正月の頃にはひび割れだして、鏡開きのような感じでそれを下げる時には表面はめくれ上がってカチカチ…
 包丁で切れるような代物では無くなっていました。
 金槌だヨキ(まさかり)だ…なんてのを動員する家もあったようです。
 餅切り用の「押し切り」なんてのも売られていました。元々は稲藁とか牛の餌の倉と切ったりするものですけどね。
 無理矢理割ったり切ったりした餅も水分が全くない状態ですから焼いても膨れる訳がありません。
 まるで「石」みたいなものです。
 焦げ目が付いたのをお茶に漬けたりぜんざいに入れてもふやけなかったですね。
 
 こんな鏡餅が。床の間・仏壇・神棚・玄関…などとあちこちにあったのですから始末が大変です。
 今の人と違い食べ物を捨てるなんて無い時代ですから、なんとしてでも食べなくては…

 そこで考え出されたのが「水餅」ってものです。
 かちかちの餅を水に浸けて保存するのです。
 当然、水を吸って少しずつ柔らかくなります。
 空気を遮断されるのでカビも生えません。
 しっかり搗いた餅なら溶けることはほとんどありませんが、いい加減に手を抜いた焼いても膨れないような餅だとぬめぬめとして溶けて行きます。
 「水くさくなる…」と嫌う人も居ましたが、私は柔らかめになる「水餅」が好きでしたね。
 固くて歯が立たないより何倍もましです。

 「寒の水」になる訳ですが。「寒の水は腐らない」と言われましたね。
 水道水では無く「井戸水」だったり「山水」だったのですけどね。
 「なれ寿司」なんてのも水の中で発酵させていましたね。
 そんなときも「寒の水」には雑菌が少なくて良かったのでしょう。
 でも、もう「水餅」にして餅を保管する家もほとんど無いのでしょうね。
 普通の家庭の「鏡餅」は見かけは丸くても中味が四角…なんてのが増えたのでしょうからね。
 我が家ではお袋が居なくなってからは「鏡餅」自体が無くなりました。


 
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# by je2luz | 2012-01-15 10:32 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 14日
熊野の旅 少し減った流木
 台風12号関連水害では熊野川や尾呂志川、井戸川から大量の材木が流れ出ました。
 家屋の流出というのが少なかったですからほとんどが山からの材木でした。
 流れ出た材木も波の向きや風の向きで流れる方向が変わります。
 どんどん沖に出てどこかに行く量が増える時と近くの海岸に打ち上がる時があります。
 台風12号の物は近くの海岸、七里御浜に打ち上げられる量がすごかったです。
 井田海岸から木本海岸まで埋め尽くすような流木が流れ着いていました。
 地元の人やボランティアによってかなり片付けられ浜のあちこちに流木の山が築かれています。

 流木というと海を漂ううちに虫がとりついて穴だらけになってそれだけで芸術品のような物もあります。
 そんなのを拾い集める趣味の人が昔から結構居るものです。
 しかし、今回の流木は川の流域で長年水にさらされていたもの以外は流れ出て一日とか二日で浜に流れ着いた「インスタント流木」です。
 皮はきれいに剥がれてピカピカのものがおおいですね。
 つまり…
 そのまま飾れるような格好良いものは少ないです。
 それに量がものすごいので、流木拾い趣味の人が拾って帰るくらいでは全然減りません。

 普通の台風とかの流木は管理者の県が回収するのと勝手に持ち帰るのとで消えるのですが、今回はこの流木を回収する予算も労力も、そして持ち出して焼却する能力もありません。
 土木関連の力は緊急を要する対策に注がれていますし、「災害復旧工事」でも二年以上かかる予想なのです。
 浜の見かけをきれいにするなんて余裕が無いのです。
 東北は町中なのにまだ片付かないくらいで災害というものは簡単なものでは無いのです。

 今回の流木に関しては三重県が「欲しい人は持ち帰ってください」とわざわざ発表しました。
 道端に出されたゴミでも収集管理者の自治体に所有権があって持ち帰ったら「窃盗犯」ですからね。
 浜の流木だって管理者に無断で勝手に持ち帰ったら雪洞になるのです。
 きちんとした材木なら更に元の所有者も関係するでしょうね。

 昔、竈や風呂が薪だった頃には川の流木や浜の流木は奪い合いでした。
 山で拾う小枝よりは太い木を割った「割木」の方が火力も火保ちも良いですからね。
 でも、今では竈は無いし、風呂はガスですからね。
 おまけにこの辺は暖地ですから今はやりの「薪ストーブ」なんて余程のマニア以外は据えていませんからね。
 木本で薪を使っているのは「ツアーデザインセンター」くらいのものでしょう。
 だから人が一杯生活している町のそばの流木でも中々減らないのです。
 それでも、県が「あげます!」って発表し新聞にも載ったら減り始めました。
 場所によっては随分減っていますね。
 でも、浜から道路に持ち出すのって大変です。
 歩くだけでも疲れるのが砂利浜ですからね。

 この流木…長い間海に居た訳では無いので芯まで海水は染み込んでいないとは思いますが一応潮に浸かったものです。
 東北のがれきでもそうなのですが、海から上がった材木を燃やすと通常の材木よりは「ダイオキシン」の発生が増えます。
 自治体の焼却炉などでは色んなダイオキシンの排出を減らすフィルターを付けたり、燃焼温度を上げて発生を抑える方法がとられていますが、一般の薪ストーブでは発生は防げないし排出も減らせません。
 でも、こんな事言っていては減らないんですけどね。
 それに落ち葉の方が葉緑素「クロロフィル」の関係で塩素分が多いくらいでしょうね。
 言うとややこしいので「燃やさないでください」なんて県の方も言っていないようです。

 まあ、管理者が構わないというのですから流木の搬出に協力してあげてください。
 ガーデニングや日曜大工には使えますよ。
 浜に上がってから随分経って雨にもさらされているので塩気も少し減ったと思います。
 詳しいことは三重県の紀南県事務所に尋ねてください。

 
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# by je2luz | 2012-01-14 11:00 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 13日
熊野の旅 木本堤防 3
 木本の堤防は昔から営々として築かれてきました。
 これは昔からこの浜の傍に住むという集落が形成されてきたからです。
 同じように砂利の浜が続いて居る所でも、有馬に入ると集落は少し浜から離れて発達しています。
 今でこそ松が無くなっていますが、結構幅のある「松原」の更に内側に家を建てたのです。
 だからなのか私達の言うような「堤防」は戦後になってから作られ始めたのです。
 私が犬の散歩に有馬松原に行っていた40年ほど前にはまだ半分ほどしか出来ていなかったように思います。
 堤防が無く、波がそのまま松原に入ってもその内側の芋畑とか集落まで届くことは無かったのです。
 少なくとも、高波が届く所には家は無かったのです。
 いまでも、この「有馬松原」は国有地として残されているので、国道の脇だというのに浜の側にはほんの一部しか民有地はありません。
 防風林として保護されていたからですが、幾度となく払い下げて貰って民有化し、町にしようなんてことを言い出した人も出ました。
 その頃の「営林署」はものすごく頑固でしたので無事に守りきられました。
 口有馬と志原尻…松原の両端が民有化された所があることのいきさつは分りません。

 国道42号線が拡幅整備された時にはまだほんの少し山側にも国有地があったのですが、払い下げられて松も無くなりました。
 オークワ有馬店の敷地で今は銀行のATMが置かれている所が最後まで松林が残されていた場所だったと思います。
 その前に、国道拡幅の時に山側に取り残された使い物にならない細い部分が払い下げられましたし、更にその前の戦時中には芋畑を作るために松原が払い下げられました。
 いまでは結構家が建って住宅地になっていますが、私が知っている昭和30年代でも芝園だとか釜の平なんて所は「芋畑」と「桃畑」でした。
 水が無いので芋と桃くらいしか育ちにくかったのです。
 でも、そのおかげで「有馬の桃」はおいしかった物です。

 その頃から日本中が高度成長で変化して家の無かった所に家が建って行ったのです。
 だから、要らなかった堤防も必要になってくるし、一部作れば無い所から苦情が出るし…
 でも、緊急性の問題とか予算の問題で有馬の住宅が浜から離れている所の堤防は遅れました。
 今でも堤防の無い所が残されていますが、木本海岸の対策が一段落したので今年度(平成24年度)から少しずつ工事が再開されることになっています。

 有馬の辺りでも国道の海抜は10m余りあるのです。
 他の日本の海岸線に比べると確かに高波が届かない地形ではあるのですが…
 よその土地の見上げるような堤防より遙かに自然の地形の方が優秀な防波堤になっているのです。

 堤防を作ると、そんなに高くないように見えても海抜14mほどには成ります。
 高さを誇っていた三陸の堤防より高いのです。
 しかし…
 それでも「津波」が歴史上最大級であれば越えてくることになっています。
 30年以内に起こる確率が80%を越えてきた「東南海地震」に備えるにはやっぱり堤防は欲しいですね。
 避難先の高台までは遠いし、途中でうんと低い沼地を横切らなくては成らないし…
 避難できるようなビルもマンションもないし…
 普通は一番安全な有馬周辺なのですが、最悪の事態の時には逃げ場が無い…
 予測ではM9で最大の津波が来ても浸水するのは50Cmから2mとか…
 ちょっと丈夫な建物の二階とか屋根の上なら大丈夫と言うことです。
 決してパニックにならないと言うことが生き残る道でしょう。
 指定ビルなんかでなくても、近所で使えそうな所を考えておくことが大事です。
 何しろ揺れ始めてから5分から10分です。
 500mも1Kmも走れるはず無いのですからね。
 そこが東北の時と違う所です。
 最悪、テレビが地震のことを放送する前に津波がやって来ます。
 公報・防災無線が鳴るより早く来てもおかしくないのです。
 そんな所に住んでいるのですから普段から頭に入れておかなくては…

 随分前からこれを言ってきたのですが、町の人がこのことに耳を貸すようになったのはようやく去年の三月以降です。
 熊野市はまだ公式には何も動きません。
 でも、こんな時に身を守るのは自分自身だし…
 昔式に言えば「日頃の行い」でしょう。
 それと「信心」かな?
 「フダラク信仰」はよした方が良さそうです。
 ここの海がその入り口だなんて言われていますからね。
 本家本元のお寺でも、もう「普陀楽渡海」なんてのを止めているのですから…


 
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# by je2luz | 2012-01-13 10:33 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 12日
熊野の旅 木本堤防 2
 ここ木本町は両端に「西郷川・にしごがわ」と「井戸側」があります。
 井戸川は他の七里御浜に出てくる川同様、「河口閉塞」に泣いてきた川です。
 その構造から後背地には沼地がありました。
 今は埋め立てて、駅前丸山・駅裏赤坂・井土などの住宅地になっている所は、河口が詰まった時の遊水池だったのです。
 水田に使われていましたが、しょっちゅう浸かってしまうやっかいな農地だったのです。
 埋め立ててからも時々浸水する土地でしたし、先頃の12号台風でもほぼ全域浸かりました。
 しかし、一番出口の部分は地盤が高いので洪水の時でも水に漬かりません。
 西郷川も河口が詰まるのですが、すぐ脇が磯になっているので他の川よりは背後の遊水池は大きくないです。
 少し上流の県立木本高校辺りが遊水池になりますから、昔から時々水に漬かってきました。
 ここも河口に近い一部を除いて地盤が高いので洪水には強いのです。
 この二つに挟まれた所に木本町があるので、比較的雨には強いのです。
 しかし、この高い地盤の海岸線の土地を作ったのは「波」なんです。
 熊野川が運び出した大量の土砂を波が運んで積み上げていった所ですからね。
 「天橋立」の大きな物が出来てそこに人が住み着いたって事です。
 浜も「砂」では無く「砂利」ですから少し大きな波で無いと運べませんし、いくら休み無く働くにしても、波の届かない所まで砂利を押し上げることは出来ません。
 つまり、この町の高さまでは波が来ているって事です。
 100年に一回の津波の他にも毎年のように襲ってくる台風もこの土地を造成してきたのでしょう。
 人間様が住み着いてからはその波が「厄介者」にされて居ます。
 海から見れば人間なんて勝手なことを言う物です。
 この土地を造成した恩人なのにねえ。
 人間が不法占拠したみたいな物なんですけどね。

 雨の水害には強い木本ですが、このように波の脅威にはズッとさらされてきました。
 奥熊野代官所の記録などにも、「大風吹き高潮来たりて家ながる」なんてのが一杯出てくるようですからね。
 高波に対しては、昨日も書いたように代々頑張って堤防を築いてきました。
 更に平成に入って沖に「潜堤」も築いて他所の海岸よりはうんと安全にしました。
 祖父の時代に木本の海岸に面した所に住み着いて以来こうした事業に関わることが因縁みたいな物です。
 祖父も町会議員をやっていましたしね。

 ようやくここまでやったのですが、残念ながらM9というような普通では存在しないレベルの地震と至近距離で発生する10mを越す津波には耐えられそうにありません。
 どっちみち起きるのですが、せめて昭和19年のマグネチュード7台後半の規模で納まって欲しい物です。
 その規模なら木本・有馬などは地震による家屋倒壊以外は無傷で済むのです。
 それでも、市内大泊・新鹿などは壊滅的被害が予測されます。
 尾鷲市も昭和19年の時と津波に関してはほとんど改善されていませんから、町の半分は消えるでしょう。
 先般三重県が予測したM9クラスだとこの木本でも浸水するのですから他の地区は推して知るべし…なんです。
 ここの海抜14mとか15mと言う堤防でも安心できないのです。
 木本の地面は海抜11mから12mあるのですし、湾の奥にある訳では無いのですけどね。

 今のところ浜に出る通路の樋門が開いたままです。
 これを常時閉鎖に変えないといけませんが、浜に出ることも無い人が「浜への出入りは住民の権利だ」「階段を上るなんて不自由だ」などと反対の声を上げます。
 町が消えて死人が出るのとどっちを選ぶのでしょうね?
 そんな人は被害が出た時に一番大きな声で「行政は何をしていた!」と叫ぶんですよね。
 何とか早く閉鎖に持ち込みたいのですが、この堤防には浜へつながる階段がまだ無いんです。
 これを完成させたら私の堤防への関わりも一段落するのですけどねえ…

 
熊野市周辺地図です
 

# by je2luz | 2012-01-12 10:03 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 11日
熊野の旅 木本堤防 1
 熊野灘に面し台風の直撃を何年に一度かは受ける木本の町は人が住み着いて以来ずっと高波と戦ってきた所です。
 古い時代は建物も掘っ立て小屋みたいな物でしたし、水の無い浜筋にはどうせ網小屋くらいしか無かったでしょうから逃げ出しておしまいと言うこともあったでしょう。
 しかし、まともに町ができはじめるとそんな訳には行かなかったでしょう。
 いまは海岸沿いはコンクリートの堤防と国道になっていますが、昔はここも松原があったのです。
 松原は防風林と高波も少し和らげる作用もあったからです。
 この松が消えたのは昭和40年頃でしょうね。
 私が撮った木本の写真に木本最後の松が写った物がありますからね。
 我が家から数十メートル鬼ヶ城寄りに松の古木があったのを記憶しています。

 堤防は石積みで浜をうんと掘り下げた深さから立ち上がっていました。
 日本列島、紀伊半島は定期的に浮いたり沈んだりしているそうで、砂利の多い少ないだけでは無く浜の高さが変わっています。
 どういう訳かその事実は全く触れられなくなりました。
 今は船着き場のコンクリート埠頭で埋められた脇浜の岩、大泊の石突き埠頭の跡などが海面に沈む時と現れる時があるのです。もちろん潮の満ち干だけで泣くのは梨です。
 私が記憶するくらいですから結構早い周期なのでしょうね。
 大きく動くのは東南海地震などでしょうけどね。
 ベースになる海抜が動くのにそれに目をつぶって居る辺りも不思議な事です。
 
 高波にとってなら30cmとかの差はまあまあですが、「津波」に対してだと大きな違いになってしまいます。
 もし、そこが限界のラインだとすると、30cmの差で町が消える可能性も含むのです。
 概略なら電卓ででもはじける程度のシュミレーションなのですけどねえ…

 本格的な土木工事がなされるようになった大正・昭和と木本町が積み重ねてきた「木本堤防」の歴史がコンクリートの下から現れたのが昨年の秋です。
 そして、今、もう一度コンクリートの陰に隠れようとしています。
 工事主体の県土木がびっくりするほど丁寧・頑丈に積まれていた旧・旧・旧くらいの木本石組み堤防は外すこと無くコンクリートの厚い壁の下に再び埋められました。
 今式の「あんこ工法」より遙かに頑丈になりますからね。
 新しい物の方が頑丈なんて神話は通用しません。
 水害なども先人の知恵の方が正しいことが多いですからね。
 このように工事計画を変更してでも頑丈さの方を選んだ県土木には感謝します。

 堤防のこちら側の足元のセメント基礎の厚みも津波で越えてくる水流を考慮してくれるようにお願いしてやって貰いました。
 このような交渉は下手に市役所を通したり団体を組むより個人の方が早い所があります。
 25年にわたりこの堤防の工事全般に目を光らせ、本当にここに住む住民の皆さんに交渉を委託されてきた分強みがあります。
 伊勢湾台風以来の高波をここで体験してきた数少ない人間でもありますしね。

 この新堤防も「津波」には不完全です。
 東北の津波の前からそれも交渉中なのですが、あの津波で真剣に考えてくれるようには成っても日本国中が大正になってしまったので、この過疎地の町を守って貰う順番が来るのが何時になるやら…
 「待ちを守る」のではなく「人を守る」というのが正確かも知れません。

 
熊野市周辺地図です
 

 

# by je2luz | 2012-01-11 10:19 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 10日
熊野の旅 65000人減・・・
 東北三県で震災後65000人ほど人口が減っているそうです。
 それも、住民登録人口ですから実質的にはもっと減っているのでしょう。
 この辺で予想される東南海地震と津波でこれだけの人口は減りませんね。
 北牟婁郡・尾鷲市・熊野市・南牟婁郡全部合わせただけが消えた訳です。
 この紀伊半島では大きな町も無く、大勢の人は住んでいません。
 過疎が進んで人口は4割ほど減ったのですが。今あげた地域のピークで10万人ほどだったのだと思います。
 もう一つ…
 紀伊半島が被災しても、日本の産業にはあまり影響しません。
 復興にお金が掛かるので大変ですが、他所の地区の工場が泊まることはほとんど無いです。
 まして、海外まで影響するなんて心配は無いです。
 防災がしっかりしているからでは無く。そんな工場なんて無いからです。
 この辺でだた一つ国内でも大きい方だったパルプ・製紙工業も今では紀州製紙一つしかありません。
 これが止まってももはや日本の紙が足りなくなることも無いでしょう。
 そしれ、紀州から材木が出なくなっても…
 那智黒石が出火できなくても…
 サンマの丸干しが干せなくなっても…

 悲しい話ですが、「東北」より「紀州・南紀」の方が日本国に占める比重が低くなっているのです。
 でも、その分、「乱開発」から逃れられています。

 「秘境ブーム」なんてのがありました。
 でも、「秘境」と言うほどの事も無いのが残念ですね。
 昔の「川口探検隊」のように、「やらせ」と「作り話」にすればそれらしくなりますけどね。
 まあ、今のテレビのルポルタージュなどでも、地元から見ると、「それほどでも無いのに…」と言う報じ方をしていますね。

 「秘境にある」ではなく、「わざわざ山奥に建てた」と言う温泉だとかをさもさもらしくやりますが不便さなら大型スーパーもホームセンターも引き上げちゃった都市近郊の町と同じくらいの物でしょう。
 そんなときも、「木曽の山奥」「飛騨の山中」「東北の山間」「沖縄の海岸」なんて方がそれらしく聞こえます。
 不便さなら石垣島より東京から遠いのですけどね。

 江戸時代から植林林業が行われた紀州の山々は見事な「人工林」です。
 一山越えても二山越えても杉と檜の美林です。
 それを、「うっそうと茂る天然林」「人跡未踏」なんて流してもねえ・・・
 日本航空の御巣鷹山事故のときも、見事な人工林をそんな風に報道していましたけどね。
 つまり、「不便」だけど「秘境」では無いのです。
 でも、それだけがこの辺の良い所なのです。
 古の熊野詣でも、「道が険しいから…」御利益があったのです。
 少なくとも、「あるように思えた」のです。

 ああ、それなのに…
 「高速道路」「高規格道路」
 これが出来たら世の中が変わるような宣伝を行政トップなどはやっています。
 これを読んでおられる他所の人で「尾鷲熊野道路が完成したら熊野まで走ろうか…」と思う人はどれだけ居るのでしょう。そして実際に走る人は???
 「行ってみたい」と言う人は多いですけどね。

 私の言う「何も無いのが良い所」なんて事を理解して「わざわざ」やって来てくれる人…
 中には居るんです。
 そうした種族が…
 有り難いことですね。
 でもねえ…
 お金は使わないんです。
 使う所が無いのが魅力なんですからね。
 そんな場所を無理矢理作ろうというのも今の観光行政です。

 どうせ赤字なら・・・
 「よう来たのう・・・お茶でも飲んでかんし!」
 と、おばあちゃんが道すがら声を掛けるような「遍路道」に戻したらどうなのでしょう?
 「ばあさん! ここへ置いたよ!」なんて心付けを縁台に残してまた旅を続ける…
 紋次郎さんもたまには通るでしょう。
 「奥熊野代官所」なんてのがあった所ですから「黄門様」が悪代官を懲らしめにくるかも知れません。
 藩の金を垂れ流す不逞の輩も居るのでは無いでしょうか?
 もう、入鹿鉱山からは銅も金も採れませんけどね。
 そして、西鶴などの世界のように「女護ヶ島」なり「西方浄土」なりを探すも良し…今の時代の多い道ならぬを歩む二人の「道行き」良し…
 でも「行き倒れ人」様に用意されている公金を使うようなことはやめてくださいね。
 今の時代では「お地蔵さん」は建ててくれませんよ。


 
熊野市周辺地図です
 

# by je2luz | 2012-01-10 10:22 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 09日
熊野の旅 新春熊野市駅伝大会 2

 このイベントは実業団とかの無い田舎では小学・中学や高校の運動部の参加がメインになります。
 スポーツ少年団・少年野球に始まって、高校の運動部…範囲は熊野市内だけでは無く和歌山県側の新宮や遠くは串本のゼッケンも見えました。
 娯楽としてのイベントでは成功例でしょうね。
 道路の遮断の時間も短いし、迷惑するほどの交通量のある道は使いませんからね。
 子供の参加が多いので応援の人数も増えます。
 上は熊野市駅前のゴール地点です。
 結構な数の応援ですね。
 先に走った選手と差サポート部隊だけでも何百人にも成りますから賑やかです。

 これは昨日と同じ第一区、本町通り・石畳通り関船町での光景です。
 見物人がものすごく少ないです。
 この通りは年々住民が減っていると言っても良いくらいですから「自然減」って感じでしょう。
 結構大きな家でも住んでいるのはお年寄りが一人というのが多いのです。
 もちろん空き家も増え、空き地も増える一方です。
 この本町を商店街として活性化しようなんて計画図を書いた事業もあります。
 駅伝があっても人が出ない(でられる人が居ない)町で商売しろと言ってもねえ…
 「古道通り」なんて冠があっても「熊野古道歩きに人」なんてたまにしか通りません。
 静かな住宅街です。(今のところは…)

 去年まで走っていた「近大高専」の色んなチームが居なくなり、「近大新宮高校」の名前がありました。
 そして、南牟婁郡のチームが多かったですね。
 まだまだ熊野は旧南牟婁郡の中心の役割は果たしているようです。
 でも、南牟婁郡・熊野市全部合わせても通常の法律で認められる「市」の条件の5万人に満たないのです。
 イベントとして定着し、成功している「新春駅伝」ですがこの先維持するのも大変な時代が来そうです。
 他所から来て戴くほどの物でも無し…

 
熊野市周辺地図です
 

 

# by je2luz | 2012-01-09 10:16 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 08日
熊野の旅 熊野市新春駅伝大会
 今、走っていると思います。
 第三走者くらいでしょうかね。
今年は参加チームが多いようです。

 午前11時熊野市駅前をスタートー記念通りー本町通りー記念通りーオークワ前ー赤坂…
 それから先は部門別にコースが変わるようです。
 上の写真はスタート前の熊野市駅前です。
 私は第一区の真ん中辺、本町通りで毎年写真を撮ります。
 600mから700m経過すると走者がさばけているのでシャッターチャンスが増えます。
 かと言って、二区や三区のようにはバラバラになっていませんし・・・

 ここが本町石畳通り関船町での先頭集団です。
 一区間が短いので早いチームはものすごく早いぴっちです。
 元々駅伝チームなんて無いにわかチームばかりですが、中学校や高校の運動部は早いですね。
 今年は風も無く上天気で見物人には良いコンディションです。
 走者もそんなに熱いという所まで行きませんしね。
 
 取り敢ず、速報だけです。

 
熊野市周辺地図です
 

# by je2luz | 2012-01-08 11:33 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 07日
熊野の旅 日が長くなってきました
 旅人にとって「日の長さ」という物は自分では変えられない旅の大きな要素でした。
 徒の時代には一時間にせいぜい5Kmくらいしか進めませんから、朝の出発はうんと早く夜明け前だったとか…
 それでも夜明けが二時間も遅いとなれば朝立ちだっておそくなります。
 夕方だって早々と日が暮れるし、薄暮の時間も短いし…
 提灯持ってなんて言っても長い道中では提灯持参では無理でしょう。

 近代になってくると鉄道での移動が増え、目的地が遠い時は「夜行列車」が有り難い存在でした。
 私などはその時代の人間で、東京に出るのも帰省するのも「那智号」という夜行列車でした。
 東京駅に着くのが少し早すぎて、まっすぐ下宿に行くと迷惑を掛けるので、九段下・神楽坂・若松町…馬場下と歩いて時間つぶしをしたりしました。
 旅行にでる時も上野発の「急行十和田」とか「急行八甲田」なんて夜行でしたね。
 当時の上野駅は啄木の世界で、ズウズウ弁がホームで飛び交っていました。
 忘れられないのは…
 「コノ チューコーハー フグスマヘ ユグガネー」とおじいさんに聞かれたことです。
 三回ほど聞き直して。「この急行は福島へゆくかね?」と言うことだと分ったのですが、こんな簡単なことが聞き取れないほどまだまだ方言が強かった時代です。
 その分、旅の情緒もありましたね。
 なにしろ、土産物売りのおばさん連中に地元の言葉で悪口言われても分りっこないくらいで、半分外国でしたからね。
 私の兄貴のお嫁さんは東京下町の育ちで、ここに嫁入りしてしばらくは、ばあさんが言うことが分らなかったようです。
 旅人にはこうした言葉がわから無いのが「旅先だなあ…」という感慨を与えた物です。
 それが薄れてきてしまうと、「見る物聞く物」の半分が減ったのですからね。
 おまけに「ガイドブック」とか出来過ぎちゃって地元の人に物を尋ねる必要も少なくなったし…

 自分の足で歩いて、自分の目で見ているようで、かなりの部分、お仕着せのルートを楽に移動し、分らない所を本などで調べるのでは無くガイドブックやパンフレットに載っている物を「スタンプラリー」のように探して歩く事になっているのでは無いでしょうか?
 時々書きますように、ひたすらガイドブックに目を落としながら足早に歩くハイカーがかなり見かけられます。
 お金のあるらしい文化人グループは「語り部さん」の説明を要所要所で聞いて、あとはがやがやと雑談しながら次に説明があるまでを集団で歩いている…
 「博物館」ほどには説明する物も無いんですが…
 大勢で一人の語り部さんなんて無理でしょう…
 もう一度戻ってきて地図以外は持たないで、自分の足と自分の五感で熊野古道を味合わないとねえ…
 残念ながら、その道中で「熊野を味わう」て言う要素が見つけにくいのです。
 「熊野古道歩き」の人を相手に「茶店」をやることが無理なだけしか旅人は来ないし金も使いませんからね。

 これからはどんどん日が長くなります。
 矢鱈と先を急がずに…

 「熊野詣」での目的地は「極楽浄土」ですよ。
 せめて目的地に着くまでの「現世」をゆっくり味わってください。
 「かどまつや めいどのたびの いちりづか」 なんて読んだ人も居ますよ。
 峠一つ一つがあちらへの一里塚なのかも知れません。

 お金も六文以上はあちらに持って行けません。道中で使ってください。
 熊野名物「サンマ寿司」を腹一杯食べても1500円も腹に入らないでしょう。
 一泊しても、一晩何十万円なんてホテルはありません。
 田舎の旅籠ですからね。
 客引きも足すすぎのお湯もでませんし、飯炊き女も居ませんけど…
 もはやここでは芸者も居ません。
 下駄を履いて歩き回る町も無いのでゆっくり休めますよ。
 一番高いのはお役所が作った宿泊施設で一泊一人二万円ほどです。民間はその半分以下でしょうね。
 でも、もう「善根宿」という出世払いの宿はありませんよ。

 ちなみに…
 この辺では関東からの旅人を…
 「かんとべえ」と読んだそうです。
 関東の田舎弁の「…するべえ」のベイが耳に付いたので…
 「関東べえ」と呼んだようです。
 何しろ、「伊勢参りとか熊野詣でをしないうちは嫁を貰ってはいけない」なんて風習まで関東の一部ではあったそうですからね。

 どうでしょう???
 それを今の時代に復活して…
 「婚活」にはまず「熊野詣」が必要条件にしては…
 昔は男だったのですが、男女ともにと言うことで配下がですか?
 かつての、「新島」「倉敷」「萩・津和野」なんて所には取り立てて御利益も無いのに女の子が集まり、それを追いかけて男の子が群がったのですから…


# by je2luz | 2012-01-07 11:46 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 06日
熊野の旅 御利益信心 熊野詣
 熊野詣では「御利益信心」てえやつですね。
 それも、「極楽浄土」だとか「西方浄土」なんてのに結びつくような「次の世」で効き目のでるやつです。
 昔の人ならそれが大変な関心事だったのでしょうけど、段々そうした物へのあこがれは薄れていったようです。
 今の人は見えない先のことより、先と言っても「この世」での御利益の方が有り難いようです。
 
 暮れとか正月になってくるとそうした御利益がすぐにありそうな神様が賑わいますね。
 「お酉様」「恵比寿様・えべっさん」なんてのはその手の神様で分りよいようです。
 おまけにそうした神様で有名な所は大阪や東京の町中にありますしね。
 でも、昔々だとちょいとした町外れ…少し遠出してお参りする位で適当な距離だったのかも知れません。
 それにしても「熊手」「笹」なんてのを売りまくるとは…
 分りよいと言えば分りよいのですが、「お下がり」「授け置かれたもの」ではなく、簡単に買えるというのも楽で良いですね。
 なんの疑いも無く大金を払って…
 などと言うと、「おまえは信心心が無い!」と言われそうですね。
 でも、昔も大きな熊手を担いで歩く人たちを見ましたが、なんだかなあ・・・と思いました。
 まだ「ホオズキ」とか「朝顔」を抱えて歩いている方が納得できます。
 むかし、販売促進に長けたテキ屋さんが居たのでしょうね。
 今の「食べログ」に左右されるような庶民が昔も居たんですね。

 この辺では「稲荷さん」という商売の神様は居ますが、「恵比寿様」「びんずる天」などと言う分りよい神様の有名なのがありませんね。
 せいぜい「庚申様」くらいかなあ???
 「庚申様」って絵のは地元密着信仰でもう一つ御利益の広がりが無いようです。

 見晴らしの良い岬などに金網を張って、蝦錠を掛けるようにするだけで若者が集まったりするようです。
 今は「パワースポット」なんて分かったような分らないようなもので客を呼んだりしているようです。
 熊野にも「パワースポット」が一杯あるのだとか…
 誰が認定するのでしょうね???
 女性週刊誌とか月刊誌などに記事の載る「カリスマ占い師」などが言えばそうなるのでしょうか?
 まさかユネスコだとか神社庁だとか各宗派の本山がお墨付きを出すはずも無し…
 でも、これは信心では無く「はやり」に過ぎないんでしょうね。
 日本だけでは無くローマなどでも噴水に賽銭を投げるのですから、そうした噂を作ると良いみたいです。
 「やらせ」でも罪にならないやつですね。
 なんか良いアイディアはありませんか?


 
熊野市周辺地図です
 


# by je2luz | 2012-01-06 10:38 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 05日
熊野の旅 次は…駅伝かな?
 三日成人式、四日出初式と続きましたが、次は八日「駅伝」でしょうか?
 これも随分前からやっています。
 20年ってことは無いでしょうね。
 もう、立派に「新春恒例の・・・」になったでしょう。
 ただ、「市民駅伝」ですから有名には成りませんけどね。
 11時に熊野市駅前から出発して、木本・井戸・有馬を走りますから少しの間だけ交通規制もありますが国道などには影響ありません。

 その前の六日に大馬神社の「弓引き神事」があるようですが、これは上の大馬神社ですし、昨年の台風12号で道がなくなっていますから一般には近づきにくいです。
 朝8時からで神事は10時からだそうです。
 ものすごく狭い道でなら迂回路がありますし、広い道から徒歩で30分ほどで着く距離ですけどね。

 十日には「産田神社」で「例大祭」があります。
 これも「弓引き神事」です。
 この日には「ほうはん」と呼ばれる行事があり、「骨付きのサンマ寿司」が出されます。
 「サンマ寿司発祥の地」と言うことになっているのはこの行事からでしょう。
 恐ろしく食べにくいかと思いますけどね。
 「安産」「子育て」にご利益があるとか・・・
 なにしろ、日本の「火の神様」が生まれたところですからね。
 その子のために母親が死んだなんてことはあっちへ置いておいて「安産」だったのでしょう。
 この日にはお店が出て、「普通のサンマ寿司」も売られています。
 この日に熊野に来られるなら熊野古道歩きを割愛してでも有馬の「産田神社」に回られた方が良いと思います。
 10時からだそうです。
 松本峠などなら午後からでも充分歩けます。


# by je2luz | 2012-01-05 09:15 | 熊野 | Trackback | Comments(0)
2012年 01月 04日
熊野の旅 2011熊野市消防出初め式
 今日は「熊野市消防出初め式」です。
 以前は小学校のグランドなどを使って屋外での式典と分列行進、放水訓練などをやったのですが、今は式典は市民会館、その後は目抜き通りの記念通りでパレードと木本小学校での放水訓練という形になっています。
 寒ぞれでの式典が無くなったので参加消防団員、参列者は随分楽になっています。
 分列行進も少しだけ見物人が増えました。
 行進するのも少し張り合いがあるでしょう。

 と、言うことで今から写真を撮ってきます。
 記事と写真はその後です。

 行ってきました。
 雪雲みたいな雲が足早に通り過ぎる空模様でいささか寒かったですが。見物人もそこそこ居るし…
 「天理教南紀大教会」の鼓笛隊の先導で市内の各分団が行進していました。
 元の熊野市でも9か町村の合併した熊野市です。
 先代の市長の時に旧南牟婁郡全体をカバーする消防組織を作り、全国的には多い「組合立」なんて変な組織を止めて指揮系統のすっきりする様に「熊野市長」が統括指揮できる「熊野市消防」の中に消防署の無かった御浜町・紀宝町・紀和町・鵜殿村を抱き込みました。
 費用だけは割り勘ですが指揮の一元化を図ったのです。
 養老院・病院などを組合立でやり、動きにくいという反省があったからです。

 このような消防ですから、熊野市内だけでも沢山の消防団があります。
 その分だけ消防自動車もあります。
 家火事でも山火事でも初期出動はこうした消防団が早いです。

 こうした大事な消防団も過疎の進行と角の老齢化で消防団員の確保が長年の懸案になっています。
 過疎も老齢化もどんどん進行するのですから改善の見込みが無いだけに深刻です。
 これが問題になってから二十年以上になります。

 本来なら一日中地元に居る職業の人が消防団に居るべきですがそうも行かないのが現実です。
 専業農家とか山働きの人なんてほとんど居ないのですからね。
 昨年の災害時などはこの人たちは自分の家が被災しながらも消防団員・水防団員として出ずっぱりでした。
 地形が複雑で孤立しがちな熊野市の各地区のような所では無くては成らない組織なのです。
 こうしたことも、東京在住の官僚や政治家の方などには分らないことでしょう。

 この真ん中の人…
 私の同僚で台風12号の時孤立した地区に住んでいます。
 道が消えていても外との連絡の必要があり、徒歩で山越えして市役所まで出てきました。
 消防団員としても働かなくては成らないし…議員でもあるし…
 でも、こうした面でも小さな集落は切り捨てられがちです。
 深刻な問題なんですが、民主主義とは多数決の原理が先に立ちますからね。
 これも解決しにくい田舎の問題です。

 
熊野市周辺地図です
 

 

# by je2luz | 2012-01-04 09:42 | 熊野 | Trackback | Comments(0)


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